2017年12月15日金曜日

「何が大切かを見極める」と人生の選択


 12月に入ってすぐ、ジョー・ウォルトン(茂木健訳)『わたしの本当の子どもたち』(創元SF文庫、2017年)という小説を読みました。ある老人ホームの一室の描写から始まります。物忘れが激しくなり、混沌のなかに生きる老女の、どうやら半生記のようです。



 自分の脳がまったく信用できなかった。彼女は、自分はふたつの世界を生き餌居て、そのあいだを知らないうちに行き来しちるのではないかと疑った。でも、そう考えてしまうこと自体、おそらく脳が混乱しているせいだった。

    (中略)

 しかし、本当にふたつの世界が存在しているのだろうか?

もし本当にふたつの世界があるのなら、いったいなにが原因で彼女は、そのあいだを行き来するようになった?(23~24ページ)



こうしてこのヒロインは混沌のなかで自分の半生を振り返るうち何かに気づいていきました。最初の章の終わり近くに、次のように書かれています。



もしこれが彼女の選択であるなら・・・・・・そう、たしかに彼女は、そんな選択をした覚えがあった。当時の他の思い出と同じく、そのときの情景がくっきりと蘇ってきた。彼女は、パインズ女学校の廊下に設置された小さな電話ボックスのなかにいた。電話の向こうではマークが、今この場で彼との結婚を承諾するか、それとも分かれるかという二者択一を迫っていた。(25ページ)



 「マーク」とは彼女(あえて「彼女」と書いているのは、明らかに主人公でありながら、この小説でいろいろな名前で呼ばれる女性だから)のフィアンセ。オックスフォード大学卒業後、小さな海辺の町にある「パインズ女学校」の教師をしながらフィアンセからの連絡を待っていた。そこに「マーク」からの電話があった、ということを彼女は思い出したのです。さて「イエス」か、「ノー」か。小説は「イエス」バージョンの彼女の人生と、「ノー」バージョンの彼女の人生を交互に紡ぎながら進んでいきます。どちらのバージョンでも彼女にはパートナーと子どもができます・・・え?「イエス」なら「マーク」との間の子どもだろうけど、「ノー」なら誰の子ども? いやいや、「ノー」なら一生独身かもしれないから、子どもはできないんじゃない? そもそも「イエス」でも子どもができるとは限らないのに? と、いろいろな疑問が生まれるでしょう。

 理解するということも「選択する」ということを教えてくれるのがエリンさんの『理解するってどういうこと?』です。「理解するための7つの方法」のなかで「選択する」ことに最も関係するのが「何が大切かを見極める」という方法です。本や文藻のなかの大切な部分を見つけて、なぜ大切と思うかの理由を考えることは、そこまでの読書行為を見直す作業になるでしょう。私たちはそんなふうにして本や文章の意味をつくりだしているのです。何を残して、何を捨てるのか決めなくては「何が大切かを見極める」ことはできません。その選択が意味をつくり出すのです。それは自分の注目した部分を他の事柄と結びつけようとすることになります。

 ある道を選ぶということは、他の道を行くのをあきらめることになります。だから私たちは迷うのだし、真剣に慎重に、考えられる限りの可能性を考えざるをえません。選択するということは、何かを必ず失うということでもあります。だからこそ、選んだことの背後には、選ばなかった多くのことが後景として残されているのです。どれだけ多くの可能性を捨てたのかということが、選択したそのことの重みを決定づけます。

 テリー・イーグルトンは読者論(受容理論)の主張を踏まえて、「読者は、隠されたつながりを見出し、空白部を埋め、憶測を立て、推理を確認しながら進む(中略)テクストとは、読者に言語の断片を意味あるものに構築するよう誘う、一連の「合図」以外のなにものでもない」(テリー・イーグルトン(大橋健一訳)『文学とは何か』上、岩波文庫、186ページ)と言っています。小説も人生もそのような「合図」を絶えず私たちに送っているものなのかもしれません。「大切なことを見極める」という方法を使って、私たちはその「合図」のいくつかは捨て、いくつかを選び取って意味づけるのです。

『わたしの本当の子どもたち』の最終章のタイトルも「選択」です。いったいそこで彼女は何を選択するのでしょう? この小説のヒロインの女性は「隠されたつながりを見出し、空白部を埋め、憶測を立て、推理を確認しながら」、最終的に彼女の人生において「何が大切かを見極める」ことになるのです。そして読者である私もまた(もちろん、どこまでも迷いながら)。

2017年12月8日金曜日

カンファランス・アプローチの醍醐味、難しさ、そして子どものエネルギーと多様性に乗ること



 今年8月4日のRWWW便りに「一人の教師が描いた図~WWと従来型の教え方の違い」を載せましたが、その図を書いてくれた吉沢先生とMLなどを通して、定期的にやりとりしています。

 その中で、人数の多い日本の教室で、一人ひとりと向きあうカンファランス・アプローチの醍醐味と難しさの両方を感じています。今日は、吉沢先生の了解を得て、その振り返りの一部を紹介します。

 

(1)70冊の作家ノートを前にして 

 
「楽しかったです」

 

 吉沢先生は英語の授業で、ライティング・ワークショップを実践しています。先生の授業では、作家ノートを使っていて、授業中のカンファランスだけでなく、ノートに書き込む形も併用して、一人ひとりに対応しています。

 

 水曜日のライティング・ワークショップの授業でいったんノートを集め、次の授業が月曜日。週末を使えばフィードバックが書ける、しかし週末は所属されている劇団の稽古が入っている、そんな状況でした。以下、吉沢先生の書きこみからの抜粋です。

 

 「しかし、やると決めて、稽古の後、職場にきてノートに目を通しました。

 

楽しかったです。

 

連日、文化祭に向けて、英語の歌を歌わせる指導に時間を割いています。クラス一丸となって歌わせるというのは、指導スタイルとしては一斉授業と同じなのです。教師の力でひっぱっていくぞー、というものです。時間がないですから、一人一人にじっくり付き合っていられません。

 

この『一人一人に付き合っていられない』という状態が、私にとってストレスなんだと気づきました。だから、深夜、人気のない職員室で作家ノートに向き合うのが何と楽しいことか。こんな気持ちになったのは始めてでした。<略>こういう時間を持ってしまうとライティング・ワークショップはやめられないなあ、という気分です」

 

➔ この感覚が一人ひとりに目を向けるカンファランス・アプローチの醍醐味なんだろうと思います。

 

 しかし、同時に現実は厳しいです。週末の深夜を使わないと一人ひとりに向き合う時間がないのも現実です。一クラスの人数の多さ、そして教師の多忙さも垣間見えます。

 

 またノートによる一人ひとりのやりとりとだけでは、十分ではないことも、以下からわかります。

 

「前回、今回と、とにかく全員に近い生徒に声をかける、ノートを見てまわるということを心がけています。質問の手が上がるので、そこでは立ち止まることにはなるのですが、何回も机間を歩き回ります。
 
 私が今感じているのは、やはり全体を意識した動きは大切だということです。大人数のクラスだから全員にカンファレンスするのは無理、だから数人にしか関われないというスタンスでいると、関わってもらえない生徒が置き去りにされている感覚をもつのではないか。

 簡単であっても、全員への目配りをしているということで、クラス全体の雰囲気が心なしか落ち着くように思います。教室でかかわれない分をノートチェックでカバーするというのは一つの方策ですが、やはりface to face の接触の代替にはならないのだ、と思います」

 

 吉沢先生の書きこみを読みながら、思い出したのが、『ライティング・ワークショップ』(新評論、2007年)の以下の記述です。

 

 「書き手とのカンファランスがうまくいくと、大きな充実感が得られます。<略>そこで、教師は子どもがもっているエネルギーに乗って、書き手を肯定しながら流れの方向をわずかに修正していきます。そうなれば、子どもとのカンファランスは自然なものに思えるでしょう。 [6667ページ]

 

 吉沢先生の場合、ノートを読むことにおいても、子どものもっているエネルギーと多様性が原動力になっているから、「楽しさ」が生まれるのだろうと思います。


 そういえば「子どもたちの取り組むトピックの多様性にふれることも原動力の一部なのです。それに日々接していると、教師が設定する画一的なトピックがいかに貧弱かを痛感します」とも書かれていました。

 

 「大人数のクラスだから全員にカンファレンスするのは無理」としないで、自分の立ち位置を変えてみる、すると、そこから、自分の教室で、できることが見えてくるのでは?という励ましを、私自身は感じています。

 

(なお『ライティング・ワークショップ』の本の続き(6779ページ)には、従来型の教え方・学び方しか体験していないほとんどの教師がカンファランスに違和感を覚えることと、違和感を感じる教師が学べるカンファランスのスキルと内容が具体的に示されています。「聞く」、「読者になる」、「書き手を理解する」、「子どもの状態に敏感に対応する」、「うまく書けているところをほめて書き手を育てる」、「一つのことだけを教える」という項目について、それぞれに説明されています。また、幼稚園~中学生を3つの年代に分けて、具体的なカンファランスの内容も説明されています。)

2017年12月1日金曜日

『「読む力」はこうしてつける』増補版


 このブログ(「WW&RW便り」)と並行して「PLC便り」を出しているのですが、その執筆パートナーが『「読む力」はこうしてつける』について何度か記事を書いてくれています。





 これらの記事からも、かなり応用範囲が広いことが分かっていただけると思います。

 そして、「はじめに」に書いたように、この本でメインに紹介してある「優れた読み手が使っている方法」は、読むときだけでなく、聞く時も、話す時も、書く時、見る時も使っています。つまり、考える時はいつも使っています。(他教科を学ぶ時もです!!)
 それほど重要な方法ですから、誰もが身につけておかないと、まずいと思いませんか?
 そして、それを教えられるようにしておかないと!!

 今回、単に増刷するのではなく、増補版の形にして出してくれるというので、「はじめに」の後に文章を付け足しました。その内容は、この本が出版された2010年以降の動向や今度の予定なども含めながら、本書の中で大切なポイントを項目立ててまとめたものです。

 本文は、ほとんど変えていません。必要最低限の校正・修正をしただけです。
 (従って、メインの部分は変わっていませんから、旧版をすでにお持ちの方は増補版を購入する必要はありません。ご希望の方には、「はじめに」に書き足した分をお送りしますので、pro.workshop@gmail.comに連絡をください。)


◆増補版の、割引注文を受け付けます。◆

1冊(書店およびネット価格)2160円のところ、
WW/RW便り割引だと    1冊=1800円(送料・税込み)です。
5冊以上の注文は      1冊=1600円(送料・税込み)です。

ご希望の方は、①冊数、②名前、③住所(〒)、④電話番号を pro.workshop@gmail.com にお知らせください。

※ なお、送料を抑えるために割安宅配便を使っているため、到着に若干の遅れが出ることがありますので、予めご理解ください。


2017年11月24日金曜日

理解のための方法を生み出す「床」


   この人の本はすごいなぁ、かなわないなぁ、と思うことが幾度もあります。そう思った一冊に『フラジャイル―弱さからの出発―』(筑摩書房、1995年、ちくま学芸文庫、2005年)という本があります。著者は松岡正剛さん。その松岡さんとメディア研究で最先端をいくドミニク・チェンさんとの対談集が、東京駅の本屋で平積みになっているのを見かけました。新幹線に乗る間際だったのでその日はそのままにしてしまったのですが、翌日、やはり気になって、広島の本屋で探しました。タイトルが気になって仕方がなかったのです。

 『謎床』――もちろん、松岡さんが関わった本がこのタイトルだったので気になって仕方がなかったのですが。「謎床」は「なぞどこ」と読みます。松岡さん自身が本書「おわりに」で「床とはトコともユカとも訓むが、謎床の床は苗床や寝床や温床のトコで、何かが熟するところをさす。苗が育つところ、熟睡ができるところ、ついついそこに居たくなるところ、そのようなトコである。本書では「謎を育くむ床」がめざされている」とわかりやすく述べています。

 松岡さんは、「意味」というものが「ほとんど非対称から生まれている」と言い、「差異のないところに意味は生まれない」と言っています。そして、『理解するってどういうこと?』のエリンさんがそうであるように、答え(A)を探すことではなく、質問すること、「問い」(Q)をつくることの意味を掘り下げて次のように言うのです。



特定のAに至るためのコースが、複数のQによって設定できるということが大事です。なぜそのほうが大事かというと、私たちは生命システムだからです。生物は合目的的な答えをもっていないし、それをめざしてもいない。しかし人間は目的がほしい。ほしかったけれど、生命システムが辿るだろうコースは変えられません。そうだとすると、Qのほうに動機もエンジンもあるんです。(『謎床』236ページ)



 そして人類が進化の過程で「毛皮」や「吠え声」や「牙」を失ったそのことが「問い」の奥にあると言います。なぜ失ったかということ問うことの方が、答えを得て納得することよりも、私たちが何かを目指して生きるうえでは必要だというわけです。喪失感が「問い」をうみ出すという論理は、『フラジャイル』から一貫したものであると私は思います。

 対談者のドミニク・チェンさんは、こうした松岡さんの論を咀嚼したうえで、持論を展開していきます。



今日のITのパラダイムは、やはり何かをアチーブさせるための補助器具でしかない。そうした功利主義的な考え方を取り払ったところで何ができるか。たとえば僕の場合は、産業というところを出発点にしているわけですが、結局のところ、アチーブメントに頼らないで生の充実をどのように増幅もしくは伝播させることができるか、ということが課題になっています。(『謎床』277ページ)



 「アチーブメント」(達成度)とかに頼らずに、「生の充実をどのように増幅もしくは伝播させることができるか」ということは、松岡さんの「Q」を重んじる姿勢を踏まえながら、ドミニクさんが課題として引き受けていることですが、これは、エリンさんが言っていた「自分の頭のなかで起こることをしっかりと探って、学ぶことの最大のご褒美とはもっとたくさん学ぶ機会を持つことであると知る時間」(『理解するってどういうこと?』104ページ)をどのようにもつかということになるのではないでしょうか。

 ドミニクさんが二歳のときの我が子が転ぶのを眺めて、自分に痛みが走るのは、フラジャイルな(壊れやすい)我が子という存在を見る人の親には共通のことだと言った後二人は次のように言うのです。



ドミニク (中略)そうしたフラジャイルなものだからこそ、かわいいと思っている部分がすごく大きいんだろうと思います。だから「かわいそう」というのと「かわいい」ということがリンクして、それは何かというと、放っておくとこの子は死んでしまう、放っておくとかわいそうな状態になってしまうであろうものを、われわれは慈しみ、いとおしくおもう。

松岡 その通りですね。フラジリティの本質には、欠損・破損・不足という状態が深く関係しているので、たとえばお子さんが何かをおこす瞬間に、自分の中でふだんは満たされないているように感じて気づかないようなことについて、不足や欠損のぎりぎり手前で成立していた充足感にひびが入ることで、きっと痛みの同期や同調がおこるんでしょうね。(『謎床』298-299ページ)



 フラジリティ(壊れやすさ)についてのこのような考え方、感じ方こそが私たちの「理解する」行為を成り立たせているのだと考えます。本や文章の理解も、人の「痛み」や「かなしみ」を理解することについても。「欠損・破損・不足」を経験しているからこそ、相手の「痛み」「かなしみ」を、わがことのように理解しようとするのだということも。

 語り合うことでこんな本(『謎床-思考が発酵する編集術-』晶文社、2017)をつくってしまう、松岡さんとドミニクさんには、かなわないなぁ!

2017年11月17日金曜日

新刊『「学びの責任」は誰にあるのか』


読み書きを教える際のとても効果的な教え方として「自然学習モデル」とともに、この「責任の移行モデル」が『「読む力」はこうしてつける』の64~68ページに紹介されています。
そこに紹介したときから、これら両方はたったの2ページずつではなく、1冊の本として紹介したいと思っていましたが、「責任の移行モデル」の方を実現させました。(「自然学習モデル」は、残念ながらマダです!)
 紹介したかった理由は、これら両方とも、読み書きを効果的に教えるためのモデルとして開発されましたが、内容や対象に関係なく使えるモデルだからです。(2年ぐらい前には、大人にすら効果的であることを発見しました。)

 新刊のタイトルは、『「学びの責任」は誰にあるのか ~ 「責任の移行モデル」で授業が変わる』(ダグラス・フィッシャー&ナンシー・フレイ著、新評論)です。

 「責任の移行」を図化すると、以下(図5-1)のようになります。

出典:『「読む力」はこうしてつける』の67ページ

 これを意識して授業をデザインするのと、しないのでは、まったく違った結果が出るのは想像できると思います。子どもたちへの責任の移行がなされないと、残るものはいたって少ないか、皆無ということすら起こり得ます。(満足したのは、教師のみ、というのではあまりにも悲しすぎます!)

 『「学びの責任」は誰にあるのか』では、上の図を、さらに分かりやすいように図1-1のように描いてくれています。

これらの4段階を読みの指導に当てはめて考えてみましょう。どのような方法が、リーディング・ワークショップで取られているかというと、以下のようになります。(上=①から下=④に移行するにしたがって、教師の役割/責任は低下し、逆に、生徒の役割/責任は上昇します。(書く指導についても、同じような方法を右側に書くことができます。)

教師の責任
①焦点を絞った指導  「私がします」       ~読み聞かせ、考え聞かせなど
 教師がガイドする指導「私たちはします」     ~ガイド読み
協働学習      「あなた方は協力してします」~ペア読書、ブッククラブ
④個別学習          「あなたが一人でします」  ~一人読み
生徒の責任

注意していただきたいのは、これらは①から④と順番に行うのでも、常にクラス全員を対象に同じ段階の活動をさせるのでもありません。たとえば、②番目の「教師がガイドする指導」をするためには、「①焦点を絞った指導」が終わっていることが前提となります。と同時に、クラスの大半の生徒が「③協働学習」か「④個別学習」に取り組んでいることも前提となります。そうでないと、教師は少人数(二~六人)の生徒たちを集めて、一〇~一五分の「教師がガイドする指導」を行うことはできませんから。

 また、4つの段階を必要に応じて、行ったり来たりすることがとても大切です。みんなが同じスピードで、同じように学べるわけではないからです。教師は、これら4つをうまく使いこなすことで、生徒の学びを最大限にすることができるのです。★

 本には、国語で使える事例だけでなく、他教科でも使える事例がたくさん紹介されています。(第2章~第5章は、上記の4つのそれぞれの段階について詳しく紹介されています。)なので、国語だけでなく、他教科でもぜひ、この4段階を使いこなしてください。そうすることで、教師主導の「授業」=教師が教え込むことから脱却し、子ども主体の「学び」が可能になりますから、生徒の学びの「質」「量」共に飛躍的に伸びることは間違いありません。

◆この本の、割引注文を受け付けます。◆

1冊(書店およびネット価格)2376円のところ、
RW/WW便り割引だと  1冊=2000円(送料・税込み)です。
5冊以上の注文は    1冊=1800円(送料・税込み)です。

ご希望の方は、①冊数、②名前、③住所(〒)、④電話番号を
pro.workshop@gmail.com にお知らせください。


★ これを可能にするのが、指導の間を通して行われる「形成的評価」です。この評価を行うことで、どの生徒(たち)が何を、どのように必要としているのかを把握することができ、①~④の適切な選択を可能にしてくれます。評価をしないと、生徒たちのニーズに関係なく、教師があらかじめ考えたシナリオで生徒たちにやらせる選択肢しかないことを意味します。(『「読む力」はこうしてつける』の64ページで強調されているように、やる必要のないことを、生徒にやらせることこそ無駄なことはありません。教師は、それぞれの生徒にとって何が必要なのかを見誤らないことが大切です。)

2017年11月10日金曜日

アトウェルさんのリーディング・ワークショップの柱


 初代「グローバル・ティーチャー賞」を2015年に受賞したナンシー・アトウェルさんは、これまでも何度(何十回?)となく、このブログに登場しています。http://wwletter.blogspot.jp/2015/12/rwww.html
 私が知っている限り、彼女のリーディング・ワークショップRWは、ライティング・ワークショップWWをまずは実践することによって、その教え方のパワーを痛感して、はじめて「読むこと」にも応用した実践だったわけですが★、すでに『リーディング・ワークショップ』や『読書家の時間』で紹介している小学校段階の「ひたすら読む」=教師は個別カンファランスをする時間とはだいぶアプローチが違います!(これについては、最後に戻ります。)
 先週も、彼女が、クラスの生徒たち(18人)とリーディング・ワークショップRWの時間に、毎回やり取りする方法が紹介されていました。
 アトウェルさんは、カンファランスという言葉をRWでは使っていません。来年の夏(か、遅くとも秋)にはその翻訳が出版されるIn the Middleの第7章で自分のRWの柱として位置づけているのは、①チェックインと②レター・エッセイ(手書き形式の書評)の2つです。★★
 先週紹介したのは、このチェックインの方でした。
 それは、ほんの40~100秒のあいだ行われるカンファランス的なやり取り/会話です。先週号に書いてあるように、その主な目的は読書生活の進捗状況をチェックすることです。彼女がこの短い時間に、必ずしていることは、読んでいる本の現在のページ数と、その本がおもしろく読めているかを確認することです。読めていたら、それについて一つだけ簡単にやり取りし(教えたり/情報提供したり)、読めていなければ、その打開策を考えるといった具合です。時間的な制約で、当然のことながら深く掘り下げることは、最初から放棄していますし、その必要性があるとも考えていないようです。そんな会話をするよりも、リーディング・ゾーン(我を忘れて読むこと)をできるだけ長く体験してもらう方に価値を見いだしているからでしょう。

レター・エッセイ
 カンファランスに代わって、生徒との本を介した深いやり取りを実現するのが、レター・エッセイです。
 簡単にいうと、新聞の書評欄にあるぐらいの記事を中学生が書けるようにしてしまおうという実践です。しかも、それを年に1度か2度するのではなく、3週間に1回ずつ書き続けます。(彼女が、ここに行くつくまでには長年の試行錯誤がありました!!)

「読み終わった本の中から1冊を選び、3週間ごとに生徒は、私か他のクラスメイトに宛てて書きます。会話のような語調ではありますが、より高度なものになり、よりゆとりがあり、毎週やりとりをするよりもずっと実りがあります。
  生徒が書くレター・エッセイは、ノートに少なくとも3ページ書くことになっています。3週間を振り返り、最も取り上げたい本を選び、ある程度時間をかけて考えることで、鑑賞力のある批評家として学んでいきます。考えたことを書くことは、すべての人をより賢明にしてくれます。生徒たちは、作家が使っている技巧や目的を認識し、より一層、文学についての思考を深めます。高校生や大学生になると、本に書かれていていることを根拠にして議論を発展させるような批評を書くことが求められますから、レター・エッセイは中学生が次に向かっていくところへのしっかりした橋渡しとなります。」(255ページ)

 このプログですでに何度か触れてきましたが、思考を助けるため/伸ばすために書くことや、継続することの大切さと対象が誰かということをよく考えこんでいることが分かります。(日本の教育で、「考えるために書く」という捉え方および実践は、どれだけあるでしょうか? 同じレベルで「考えるために読む」「考えるために聞く」「考えるために話す」は?)
 教師だけが、エッセイ・レターを書く対象ではない、というのがいいです。教師に2回書いたら、次はクラスメイトに2回という具合です。(これは、教師の負担を減らすだけでなく、教室内に本を読むコミュニティーを作ることにも大きく貢献しています。)
そして、具体的な書き方については、教師自身が示す見本、それまでの生徒が書いたレター・エッセイの分析などを通して、繰り返しのミニ・レッスンで教えられます。さらには、生徒たち自らが教師と一緒につくり出す「すべてのレター・エッセイで批評家が行うこと」と「レター・エッセイで批評家がコメントできそうなこと」のリストを参考に書き続けます。そして、それらの項目自体が評価の基準にもなるのです。この辺について詳しく知りたい方は、2018年夏に刊行予定の翻訳本を参考にしてください。

 このアトウェルさんが中学生を対象にしたRWのやり方が、小学生を対象に使えるかというと、無理です。(高学年なら、クラスの1~2割は可能かもしれません。しかし、ある程度のレベルのものを期待するのは酷です。)100秒以下のチェックインで、事足りる子どもは極めて少ないと思いますし、中学年までは、レター・エッセイを要求しても、無理でしょう。(小学1年生段階から、WWRWを毎年体験していたら、十分に可能ですが!)
 小学校でのRWは、『リーディング・ワークショップ』や『読書家の時間』で詳しく紹介されているように、カンファランスが中心にならざるを得ない、です。そして、中学校段階は逆に、それの必要性がない(薄い)から、チェックイン+レター・エッセイというアプローチを選択しているわけです。(当然のことながら、小学校段階で一度もRWを体験していなかったら、アトウェルさん流のRWを中学校で実践することも難しくなります。)
 従って、一言でRW(あるいはWW)といっても、対象に応じた適切なやり方がある、ということです。RWWWでも、教科書アプローチに陥らないでください。目の前にいる子どもたちこそが何よりも大切です。さらに、同じクラス内でも多様な子どもがいます。同じことをみんなにすることが(たとえ、楽ではあっても)、教師の役割ではありません。


★ 彼女は、1980年代の初頭にWWに取り組み始め、同じころないし数年後にはRWも始めたと思います。In the Middleの初版は1987年に出ていますから。それ以降も、WWRWに40年近くも磨きをかけ続けています。

★★ 第7章では詳しくは触れられていませんが、RWをうまく運ぶための方法として、ブックトークも大事であることが、この本の他の章から分かります。
  もう一つ、第7章で触れているのが「読んでいる本について、授業時間外に起こるおしゃべり」です。しかし、それを彼女は「授業時間外」のいつでも、どこでも起こるものと捉えていますから、RWをうまく運ぶための方法/要因ではありますが、RW中にすることとしては位置づけられていません。(少なくとも、公式には。従って、アトウェルさんはブッククラブを授業中にすることも視野にありません!)

2017年11月3日金曜日

読み手を教える個別カンファランスを、短時間で効果的に行うには?


 読み手を教えるために、一人ひとりとやりとりをするカンファランスを、短時間で効果的に行うという具体的なイメージが、私はなかなか持てませんでした。

 生徒が、私の好きなお薦め本を読んでいると、自分も嬉しくて、話していると楽しくて、ついつい時間が長くなりました。また、読むことに関して、問題を抱えているのがわかると、一緒に解決への道筋を考えようとして、これもまた長くなります。そうすると、カンファランスをする人数はどんどん限定的になります。


 このブログでも時々紹介してきた、中学校レベルの優れた実践者、ナンシー・アトウェル氏の本を見ていると、この問題への対応がかなりイメージできますので、今日はそれを紹介します。

 アトウェル氏の場合、ミニ・レッスンのあとの読む時間に、1回の授業で18名の生徒と短い会話をしています。この18人というのは、クラス全員です。もちろん、日本の教室で18名という少人数で教えるのは難しいと思います。

でも、もし1回に18名の読み手と短く、個別カンファランスができれば、2回分のRWで、人数の多い日本の教室でも、ほぼ全員を個別にサポートできるのでは?と思いました。 

 アトウェル氏が、ある1回のRWで行った18名との会話の一覧が載っている本★があり、それを見ていたのですが、そのやりとりを声を出して読んでみると、短い人だと40秒ぐらい、長くてもせいぜい100秒ぐらいだと思います。でも、短いのに、とても豊かな時間です。

 さて、短時間でこなすコツですが、アトウェル氏の本から考えると、3つポイントがあると思いました。


 授業中に一人ひとりと短く話す時には、その目的がはっきりしています。アトウェル氏の場合は、読書の進捗状況★★と今読んでいる本に満足できているか、どのように読んでいるのかを確認し、読み続け、成長できるようなサポートをすることです。

(★★進捗状況については、アトウェル氏のクラスは、最低、毎日20ページ、自宅で読むという宿題があるので、その確認も兼ねて、この時間中に、生徒の名前一覧を書いた表に、書名とページ番号をメモしています。ですから一人ひとりに、共通して聞いているのは、書名とページ番号です。)

あとは、読んでいるページ数や本によって、当然ながら、18名と話せば、18通りになります。それぞれに簡潔、でも、豊かです。

いくつか例をあげると、「読んでいる理由を尋ねる」、「同じ著者の他の本と比較した印象を聞く」、「気に入っているようであれば、クラスメイトにブックトークをするようにお薦めをする」、「相当難しい本だと、ちゃんと楽しめているか確認する」、「読み続けるかどうかを迷っている場合は、その子の選書方法や、本を途中でやめる場合の基準を聞く」、「この本は『出版されたのが第2次世界大戦の少し前で、当時、ほとんど売れなかった等、本についての知識を補う」、「ジャンルを尋ねる」等です。


(子どもによっては、昨日自宅で読んだ本を持ってくるのを忘れてきたり、ロッカーに本が入ったままで、読書記録を記入していないときもあり、その対応もこの時間に個別にしています。あと本を返すときの返却手続もこの短いやりとりの中で行っています。)

② 豊かなやりとりが短時間でできるのは、この時間は「粗筋を伝える時間や本についての口頭報告の時間でないこと、読み終わる前にこの本のテーマ等を聞き出されることもない」ことを生徒がしっかりわかっているからです。

 そして、本についてより深く考え、やりとりする方法を他に設けています。アトウェル氏のクラスは3週間に一度、その間で読み終わった本からベストを選び、それを手紙形式でアトウェル氏もしくはクラスメイト宛てに書き、受け取った人が返信をします。掘り下げた「書くこと」を使ってのやりとりで、批評家としての目も養えるようにサポートしています。
 
③ 本についての堅苦しくない会話も大切にされています。アトウェル氏も、RWの時間中だけでなく、授業の前後も、昼休みも、もフィールド・トリップに行く途中も、チャンスがあれば生徒と本について話しています。

***

★ 上で紹介しているのは、Nancie Atwell著 In the Middle の第3版です。Heinemann社より2015年出版、上に書いたことは第7章に詳しく書かれています。特に247~253ページの18名とのやりとりの再現は、教室の様子がとても具体的です。