2017年3月25日土曜日

カンファランス雑考(2) ~いいなと思ったピア・カンファランスの実例

 1か月前のRWWW便り(ブログは224日、フェイスブックには225日にアップロード)で、ピア・カンファランスについて書きました。その後、ピア・カンファランスについて考えている中で、Jack Wilde氏が書いているものを読みました。★
 
(★タイトルはPeer Conferences: Strategies and Consequencesで、今日のRWWW便りの最後に、全文が読めるURLを記載しておきます。)


 教室で読み聞かせで使った本を使って、書いたものに対するコメントのつけ方を学ぶ練習をする、という実例です。読み書きのつながりも、ピア・カンファランスの効果も実感できる、一つのよい実例だと思いましたので、今日はそれを紹介します。(カッコ内は、自分のメモのためのページ数です。)


 書き手として成長するためには、「うまく書けているものには、どういうことが行われているのか」を知ることが必要です。それを知ろうとするとき、往々にして、自分が取り組み中の作品よりも、人が書いたもので分析するほうが、わかりやすいです。(1ページ)

 

 しかし、人が書いたものに対して、「いいね」とか「よく分からないなあ」というような、漠然としたフィードバックだけだと、次にどうすべきが、よく見えてきません。ですから、「なんとなく」うまく行っているのかどうかではなくて、「具体的に」どうしてうまく行っているのかを知り、それを言語化することができれば、それは、お互いに書いたものを読みあうピア・カンファランスに役立つスキルとなります。(1~2ページ)。

 

 このスキルを身につける練習として、Wilde氏は、自分が、子どもたちに読み聞かせをした本を使っています。読み聞かせをした本を使って、その本では、「具体的」に何が上手く機能して、よい文になっているのかを、学ぶのです。(2ページ)

 

 私がとてもいいなと思ったのは、次の2点です。


1.みんなが同じ本についてコメントしているので、「こういうコメントが具体的でよい」というのを、子どもたちが、他の子どもたちから学ぶこともできること。(2ページ)


2. 読み聞かせで使った本で練習することは、クラスメイトにいきなりピア・カンファランスでコメントする前の練習としては、安心であること。つまり、クラスメイトであれば、うまくコメントできないと、傷つけてしまうようなこともあるからです。(2ページ)

 

この練習は、なぜこの作品がうまく行っているのかを「口頭で言う」ことから、「書く」というところへと発展していきます。子どもの書いた実際の例が、最初の頃のと少し後の時期のが出されていますが、それらをみていると、「どうして、この作品が上手くいっているのかが、具体的に書けるようになり、「良い文とはどんなものか?」という感覚を子どもが身につけているのがよくわかります。(2~3ページ)

 

⇒ こうなれば、人の作品にピア・カンファランスでコメントするときも、具体的に、役に立つコメントができるでしょうし、これは、練習すれば、うまくなるスキルというのがよくわかります。また、同時に、自分の中にも「書き手の目」が育ち、それは、いずれ自分が自分の作品を読むときにも使えると思います。


***** 



 これを読んでいて、もう1点、興味をひかれたのは、コメントを受け取る側の能力についても、言及されていることです。


 つまり、カンファランスで得るものは「助けになる読者の視点」であるものの、それに全面的に従う、ということではないということです。この点については、また別の機会に考えたいと思います。



*****


★ Peer Conferences: Strategies and Consequences の全文は、以下よりお読みください。http://www.learner.org/workshops/writing35/pdf/s6_peer_conferencing.pdf




2017年3月17日金曜日

「違い」を力に変える理解の姿


 『理解するってどういうこと?』の第3章「理解に駆られて」には、著者の母親が急性リンパ腫を発症した時に、著者が父親や兄と一緒にこの病気についてありとあらゆる情報を集めながら懸命にこの病気を理解しようとした「熱烈な学び」の記憶が記されています。著者が24歳の時の出来事で、母親は49歳であったと書かれています。あまりに辛い出来事のなかで行われた「熱烈な学び」のなかで、懸命に母親の病を探る手がかりとなった本の一つに、ハロルド・クシュナーの『なぜ私だけが苦しむのか』(斎藤武訳、岩波現代文庫、2008年、初版はダイアモンド社、1985年)があります。クシュナーはユダヤ教のラビ僧ですが、息子を早老症のために亡くしたことで自身に降りかかった辛い運命を告白しながら、苦悩の中心に立たされた時に人は何をどのように考えればよいのかという問題に取り組んだこの本は、多くの言語に翻訳され世界的なベストセラーになったと言います。
 そのクシュナーの新しい翻訳が出ました。『私の生きた証はどこにあるのか―大人のための人生論―』(松宮克昌訳、岩波現代文庫、2017年)です。「さあ、喜んであなたのパンを食べ、気持よくあなたの酒を飲むがよい。あなたの業を神は受け入れてくださる。」にはじまる、旧約聖書の「コヘレトの言葉」に導かれながら、クシュナーは本書で満足できる人生とは何かという問題に取り組んでいます。彼の思考の根底には、私たちを欲求不満にさせ人生から喜びを奪う」のは「意味の不在」だという考え方があります。これを逆に言うと、満足できる人生のために一番必要なのは人生を意味づけることです。
 人生を意味づけるためには何が必要か。クシュナーは「コヘレトの言葉」をはじめ、ゲーテ、ユング、ピアジェ、ブーバー、ジェームズ、エリクソンら古今東西の知性が残した言葉を引きながらそれをわかりやすく語っていきます。
 「人生を充実して生きてきた、無駄にはしなかったと感じられるために、絶対的に持たねばならない、行わねばならないこと」としてクシュナーは次の三つをあげています。

・人々の一員となる
・痛みを人生の一部として受け入れる
・自分が違いを作りだしてきたことを知る

  最初の二つはいろいろな人が言っていることだと思います。しかし、三番目の「自分が違いを作りだしてきたことを知る」ということはどういう意味で、満足できる人生のために必要なのでしょうか? クシュナーは「人生」を「良書」に喩えて次のように言います。

本に深く入り込めば入り込むほど、ますます本の世界と一体化し意味を理解するようになります。登場人物を理解する目がしっかりと養われ、その前に書かれた出来事の意味がより明確になります。本の終りにたどりつけば、完全に読み遂げたという満足感があります。
 いうなれば人生は芸術作品です。さらに作品の細部にまで愛情深いまなざしを向けるなら、仕上がった作品を誇りに思うことができるでしょう。芸術家は、見ず知らずの人が自分の芸術作品を購入し、また作品が新しいオーナーにどれほど喜びを与えるかを知るすべもないのに、どうして絵を描き、彫刻を作り上げることができるのでしょうか? 作家は、自分の本が何百マイルも離れたところに住む知らない人に読まれ、そのような読者にどんな影響を及ぼすかを知ることもないのに、どうして書くことができるのでしょうか? 私たちがそれらの問いへの答えを知るとき、私たちはなぜ、いつの日か命を召されることをよく承知しながら、人生において懸命に働き、自分の人生を通して何かを作り上げるかを理解するでしょう。そして、他者だけが、私たちの人生を通して作り上げた作品がどれほどよいものであったかを記憶にとどめてくれるでしょう。(224225ページ)

 「自分が違いを作りだしてきたことを知る」とは、「人生」という「作品の細部にまで愛情深いまなざしを向ける」ことを意味します。それは決して自己満足で終わるということではありません。むしろ逆です。自分の作品が未見の「他者」に受けいられるかどうかもわからないのに、それでもその未見の誰かに向けて作品を表現しようとすることが、その人を豊かにするということだと思います。そして、「自分が違いを作りだしてきたことを知る」ことができるのも、クシュナーの言う通り「他者」がそれを伝えてくれるからなのではないでしょうか。

自分自身の生活に閉じこもろうとするのではなく、他者とその世界に違いをもたらしながら、いかに他者と人生を分かち合えるかを学ぶかどうかは、重大なことです。(249ページ)

『私の生きた証はどこにあるのか』には、『理解するってどういうこと?』と重なる言葉が少なくありません。クシュナーの本は〈私たちが生きている証とは何か〉についての本なのですから、人間存在そのものの「理解」について書かれてあるのは当然と言えば当然なのかもしれません。『理解するってどういうこと?』もまた、本や文章の理解にとどまらず、人間を理解するということについての本です。一方は「満足できる人生」を探究し、もう一方は「理解すること」を探究していますが、ともに私たちの人生が「意味づけ」を必要とするものだと言っています。その「意味づけ」とは、クシュナーの言葉で言えば自らのつくり出してきた「違い」に自覚的になる、ということなのではないでしょうか。「違い」をもたらしながら、いかに他者と人生を分かち合うかを考える。そのことによって「違い」を力に変える理解の姿を、クシュナーは教えていると思います。

2017年3月10日金曜日

新刊紹介


 先月に続いての新刊案内で、すみません。

『ようこそ、一人ひとりをいかす教室へ ~ 「違い」を力に変える学び方・教え方』(キャロル・トムリンソン著、北大路書房)の発売予定が大幅に前倒しになり、3月28日だったのが17日になりました。そうです、来週の今日です。

原書のタイトルは、The differentiated classroom : responding to the needs of all learners, Second editionです。欧米では、differentiated instructionの名前で、2000年以降は教育の5本ぐらいの柱の一つとして脚光を浴び続けています。それが残念ながら日本にはこれまで紹介されませんでした。(こんないい学び方・教え方がなぜ、と思ってしまいます。それほど、日本の教育は鎖国状態にあり続けています!)従って、耳慣れないのは当然なのです。
differentiationには、区別、識別、分化、特殊化、差別化、差を認めることなどの意味があります。しかし、私たち3人の訳者は、それらのいずれも使わないことにしました。誤解を招きそうな言葉ばかりですから。その代わりに(かなりもがいた結果?!)選んだのが「一人ひとりをいかす」だったのです。この「一人ひとりをいかす」という言葉の中に、生徒一人ひとりが多様な能力や可能性をもっていること、一人ひとりの興味関心、既有の知識・理解、学び方や学習履歴などの違いや多様性を大切にすること、一人ひとりの学習上のニーズに応じる質の高いカリキュラムや多様な教え方・学び方をデザインして実践することなど、本書で提案されているdifferentiationの奥深い意味を込めたのです。


  この本の中には残念ながら紹介されていませんが、私は一人ひとりをいかす学び方・教え方として、もっとも優れているものの一つがリーディング・ワークショップとライティング・ワークショップ(RWとWW)だと思っています。だからこそ、日本で紹介しはじめました!!
 それは、この本を読んでいただければ、理解していただけると思います。そして、この本がまさにRWとWWを実践する際の理論的な裏づけにもなります。
 詳しい目次は、http://comingbook.honzuki.jp/?detail=9784762829598 をご覧ください。
 正直なところ、私自身はあまり乗り気ではないのですが・・・
http://projectbetterschool.blogspot.jp/2015/03/blog-post.html に書いたような理由で・・・しかし、これから少なくともしばらくの間(?)は付き合わざるを得ない「主体的・対話的で深い学び(アクティブ・ラーニング)」にも、この本は最適です。というか、これまでに日本で出版されたアクティブ・ラーニング関連のどの本よりも、現場の先生のニーズに応えるものになっていると思います。

◆訳者による割引注文を、以下の要領で受け付けます。

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ご希望の方は、①冊数、②名前、③住所、④電話番号を
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★ 『理解するってどういうこと?』と争うぐらいに、中身の濃い内容なので、この値段でも十分に元が取れます。また、『理解するってどういうこと?』の場合と同じで、訳者の努力によって原書の値段よりも安くなっています。それに加えての訳者割引ですから、超お買い得です。


2017年3月3日金曜日

子どもたちこそがワークショップの主役


When Writers Drive the Workshop: Honoring Young Voices and Bold Choices, by Brian Kissei, from Stenhouseという、とても魅力的なタイトルの本を読みました。
表題は、メインタイトルの部分ですが、サブタイトルの「子どもたちの声(考え)と大胆な選択に敬意を表す」というのもいいです。あまりにも、子どもたちの声を聞かず、選択を提供しない授業が横行していますから。

そして、まだまだワークショップも子どもたちや参加者主導にはなっておらず、ファシリテーター役の教師や講師が主役であるものがあまりにも多いからです。★ 
それは、ある意味では、教師や講師がすでに描いたシナリオ通りに事を進めるのがもっとも無難だからです。結果的に、子どもたちや参加者は見事なぐらいに、あらかじめ敷いたレールの上を歩んでくれ、ワークショップも成功裏に終えることができます。
しかし、教師や講師は事前にすべて知っていたことをカバーしただけですから、学べるものは何も(ほとんど)ありません! 一斉指導を、ちょっと違う形で(参加型で)しているのと変わりないと言えます。★
この本は、その根本的な部分を捉えなおさせてくれます。

 「まえがき」の部分からいくつか鍵となる文章を紹介します。

1 昔々(いや、そんな昔ではありません!80年代の前半ですから)、ドナルド・グレイヴスという男が、子どもたちの言うことに耳を傾けることが大切だ、と言いました。他にも、(作品ではなく)書き手を教えよ。本物の作家(やノンフィクション・ライターやジャーナリスト)がしているようにやってみよ、と言いました。そうすれば、課題を与えたり、既存のカリキュラムをカバーしたり、年間にやれることをはるかに越えて、教室の書き手たちは育ちます、とも。
 そしてそれが、私たちがまさにしたことです。北米ではライティング・ワークショップが国語の時間の主要な位置を占めるようになりました。(1ページ)

2 子どもたちが言うことに耳を傾けられれば、私は教師として成長できます。
 以下は、私が学んだ最も大きな教訓です。「子どもたちに教えるには、子どもたちを知っている必要があります。子どもたちを知るには、子どもたちが自分を開示しなければなりません。開示するには、子どもたちは安心・安全と思えなければなりません。安心・安全と思えるには、主体性をもっている必要があります。主体性をもつには、子どもたちは選択をもっている必要があります。子どもたちが自分の書く題材を決めるとき、子どもたちの人生(生き様?暮らし?)が作家ノートの上に姿を現します。私たち教師は、子どもたちの考えや大胆な選択によって学び続けることができるのです。」(6ページ)

3 教師になりたての頃は、いま現在、書くことを教えるのが嫌いな教師と同じように、私も書くお題を出していました。子どもたちの言うことに耳を傾けるようなことはしていませんでした。カンファランス?(なんですか、それ?) その時間は、私の机の上に山のように積まれた生徒の作品に目を通し、成績を付ける時だと思っていました。私の作品を見る視点は、言語事項からの観点だけで、子どもたちが何を言わんとしていたのかには興味が向きませんでした。私は、子どもたちの作品がほとんど同じでように見えたときに、うれしく思っていたぐらいです。私は、個々人が表現することの大切さではなくて、画一化こそを目標に設定していました。私の指導案は見事なぐらいに事前に決まっていました。それは、指導書からそのまま写したようなものでした。何を、いつ、どのように教えたらいいかが決まっていました。目の前にいる子どもたちのニーズなどはおかまいなしに。私は、このやり方を数年続けました。ひどい教師だったといまでは後悔しています。いまだにこのひどい教え方は、私の心に重くのしかかっています。(6~7ページ)

4 カンファランスで子どもたちと話すことを通して、子どもたちは私たちに教え続けてくれるのです・・・・多くの教師は、ライティング・ワークショップ(状況は、リーディング・ワークショップも同じです! そして国語以外の他の教科でも!)のこの点に最もためらいがちです。それにはいくつかの理由があります:自分が知らないことをさらけ出してしまう。何を話していいのか定かでない。クラスの中にたくさんの子どもたちがいるのに、一人の子に時間を割いてしまっていいのかという悩み、などなど。しかしながら、私たちが子どもの話すことに一心に耳を傾け、書いていることについて質問をし、書き手としての子どもについて学ぶとき、私たちは書き手が自分自身で振り返るということを助ける、とても重要なことをしているのです。(8ページ)

要するに、教師が学び続けることこそが、子どもたちが学べる条件なのです。
 間違っても、教師ががんばって教え続けることではありません!

 以上で紹介した内容はすべて、驚くぐらいに『好奇心のパワー』の内容と共鳴しています。
今回紹介したWhen Writers Drive the Workshop: Honoring Young Voices and Bold Choices(「子どもたちがワークショップの主役を担う」)は、まだ英語で出版されたばかりです。日本語で読まれたい方は、いまのところは『好奇心のパワー』でがまんしてください。

★ この辺は、ファシリテーションにつきまとう乗り越えがたい課題であり続けます。ファシリテーション型のワークショップでファシリテーターが主役でなくなっていたケースをご存知でしたら、ぜひ教えてください。
  そして当然、この課題はアクティブ・ラーニングにもつきまといます。
  http://projectbetterschool.blogspot.jp/2015/03/blog-post.html および『「学び」で組織は成長する』で紹介されている22の方法の20番目の「ワークショップ」の項を参照ください。


2017年2月24日金曜日

カンファランス雑考 ~ピア・カンファランスにおける関係性は?

 生徒同士のカンファランス、つまり、ピア・カンファランスについて、私にはイメージしにくい部分があります。

 特に、現時点では、二つのことが疑問です。

1)ピア・カンファランスの関係性は、何に例えると分かりやすいのか?

2)ピア・カンファランスの多くの事例が、ライティングであり、リーディングで少ない印象があるのはどうしてなのか? 

 2)に関しては、ライティングの推敲や校正の段階であれば、ピア・カンファランスは、特に一斉に行うには取り組みやすい、という点があるようには思います。

 もっとも、カンファランス自体は、書くこと・読むことの様々な過程で使われることを考えると、「今日までに下書きを仕上げる、今日は一斉にピア・カンファランスを行う」という使い方だけでは、何か違う、というか、なんだか勿体ない印象を受けます。

  2)についても、考え続けたいと思っていますが、今日は1点目、「ピア・カンファランスは、何に例えると分かりやすいのか?」を考えます。

 ピア・カンファランスではなくて、教師によるカンファランスの場合、例えば、「医者と患者」や「親と子」の比喩が使われることがあります。

 たとえば、 『読書家の時間』(新評論、2014年)の「評価」の章(161ページ)には、以下のような記述がありますが、それがカンファランスにも生きていると言えます。

 「このような評価の考え方は、医師のカルテに似ています。医師は患者を一同に集めて、一斉に同じ治療を施すことはありません。一人ひとりの症状を確認し、どのように回復したいのかを聞いてから、その患者にあう助言や治療法を提案していきます。そして、その一連のやりとりをカルテに書き込んでいきます」

 中学校レベルの優れた実践者、ナンシー・アトウェル氏は、自分の子どもが5歳の時に「靴ひもの結べるようになりたい」、と言ってきた時のことから、「引き渡すこと、手渡し、譲り渡すこと」という意味のある handover という単語を使って、知識やスキルを生徒に教えて、できるようにすることを説明しています。★

 医師にしろ、親にしろ、はっきりしているのは、教える人と教えられる人との間にある、知識やスキルの差です。

 一方、ピア・カンファランスではどうなのでしょうか? 人数の多い日本の教室ではピア・カンファランスが大切!と考えている『作家の時間』(新評論、2008年)では、ピア・カンファランスというセクションを設けて6ページにわたってその様子を述べており(68~73ページ)、その中には次のような文もあります。

 「そして、ピア・カンファランスの最大のメリットは、お互いに読み合うことによって、子どもたちの間に一緒に高め合っているという学び合いの気持ちが生まれることです」(68ページ)

 このような学びは何に例えればいいのでしょうか? 「ライバル同士の切磋琢磨」でもないし、「仲良しグループ」でもないし、複数で一つの目標に向かう「チームワーク」でもないし。。。

 ピア・カンファランスにおける関係性を例える、よい例や比喩がさっと思い浮かばないのは、自分を振り返るとき、それぞれにピア・カンファランス的に、学び合い、高め合うという関係性が少ないからかもしれません。どうしても、知識やスキルに差(「多様性」というよりは、埋めるべき「差」です)があるところでの学びが多いのです。

 逆に言うと、学ぶ人同士の、知識やスキルの差を、一方的に埋めるためではない関係性を、子ども時代に体験できることは、とても大きいのかもしれません。

 また、先生は学びのいいモデル、と考えると、先生自身がピア・カンファランス的な学び合いを経験することも大切なはずです。

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 そこで教師がピア・カンファランス的な関係性の学びを経験できる方法は?と考えてみることにしたところ、とりあえず、二つ、頭に浮かびました。

1)上下関係がなく、気持ちよく共有やコメントが出しあえるような、授業研究やライティングのグループ。できれば、コメントされる人とコメントする人とに分かれるのではなくて、それぞれが両方の立場を経験できるようだと、さらにいいと思います。

⇒ 一つの試みとして、 ここ何年か、数名の先生と「閉じたブログ」(メンバーしか見れないブログ)」で、お互いの実践を振り返ったり、情報を交換したりしています。いいフィードバックができているのか等、まだまだ課題はありますが、でも、この関係は、うまく運用できると、よいピア・カンファランスの関係性に近いのかも?と思います。

2)ブッククラブ体験

 ピア・カンファランスの関係性の例えとして、「医師と患者」でも「親と子」でも、また「ライバル同士の切磋琢磨」でも、「仲良しグループ」でも、「チームワーク」でも ないと思うと、「ブッククラブの参加者」が近いように思いました。
 
 それは、ブッククラブでは、「知識とスキル」の明らかの差を、一方的に埋める時間ではなく、違う視点が提供され、みんながその学びに集中しているからです。もちろん、自分の必要(自分の尋ねたいこと)をはっきり述べて、助言を求めることもあります。

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 ピア・カンファランスをより深く理解するためには、まずは自分自身がピア・カンファランス的な学びの成功体験を増やしていくなかで、新たに見えてくるものもありそうに思っています。

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★ handover ですが、Nancie Atwell著のIn the Middle: A Lifetime of Learning about Writing, Reading, and Adolescents, (Heinemann, 2015) の 14-15ページ。それ以外の箇所でもこの概念はでてきています。

2017年2月17日金曜日

斎藤美奈子の「考え読ませ」に惹かれた夜

    斎藤美奈子さんの本は、『文学的商品学』(紀伊國屋書店、2004年)『文章読本さん江』(ちくま文庫、2007年)をはじめとしてたくさんありますが、いつも驚かされています。うすうす感じてはいたのですが、この人の本が面白いのは、取り上げられる本や情報の解釈そのものはもちろん、それぞれの本や情報の捉え方・扱い方が卓抜だからです。そこでは本の読み方がきわめて具体的に示されていますが、それは、「優れた読者の読み方の「考え聞かせ」のようなものなのです。
 「考え聞かせ」(Think Aloud)とは何か。『理解するってどういうこと?』のなかで、「読み聞かせをしながら、途中途中で自分が読みながら考えたことを紹介する」ことであるとされています。そうです。斎藤さんの本では、常に、その優れた自分の本の捉え方や反応の仕方の考え聞かせ(本だから「書き聞かせ」、い、いや、「考え読ませ」といった方が正確なのかもしれません)が行われるのです。
 その「考え聞かせ」(「考え読ませ」?)の達人が、なんと文庫本の「解説」を取り上げたのですから...、面白くてたまらない・・・のではないかと思って手に取った、読み始めて本当に面白かった本が、『文庫解説ワンダーランド』(岩波新書、2017年)です。夜っぴいて読みました。
  たとえば、赤川次郎『三毛猫ホームズの推理』(角川文庫)の辻真先さんの「解説」について、次のように書かれています(〈 〉内は齋藤さんによる引用)。

〈お待たせしました。/記念すべき三毛猫ホームズシリーズのはじめての文庫版であります。/(略)なんの誇張もありません。探偵小説の歴史をひもといても、動物が探偵役をつとめるなんて例は、おとぎばなしの世界でもないかぎり皆無といってよろしいでしょう〉
 以上が書き出し。このシリーズがいかに画期的かを記した後、辻は続ける。
〈一般のミステリー大好き人間ならまず以て、期待するのは、意外な犯人のはず〉
〈では作者はホームズ第一作のために、どのような「意外な犯人」を準備したか!/実は、ですね。/…………/…………/えへへ、期待させて申し訳ない。/解説から読みはじめる読者のために、ここで凶悪犯人をばらすのはやめておきます。〉〈その代わり、といってはなんですが、よりお目をとめていただきたいのが「意外なトリック」です〉
 ここで解説はミステリーにおけるトリックのしくみを解説し、〈「ホームズ」第一作には、嬉しいことにこの密室が出てまいります〉と続ける。
〈えい、内緒でトリックをばらしちまいましょう。/実は、ですね。/…………/…………/えへへ。ぼくがばらすわけないじゃありませんか。(略)/むしろご注目いただきたいのが、「意外な伏線」であります〉。そしてまた同じオチ。
〈さてその伏線とは/………/すみません。お察しのとおり、内緒、内緒〉
 この解説のどこが優れているかといえば、ホームズシリーズの新しさと正当性を紹介しながら、同時に「ミステリーの楽しみ方」を初心者のために噛み砕いて解説しているということだ。(200~201ページ)

 これは、辻さんの「解説」の優れた点を取り上げた部分ですが、斎藤さんはこのような感じで、文庫解説を読み解いていくのです。1ページほどの分量で、辻さんの文庫解説の勘所を「考え読ませ」しているのです。斎藤さんの選んだ引用を読み、またそれについての斎藤さんの思考をのぞき見ることができるのです。そしてこれは、本についての紹介の仕方についての「考え読ませ」でもあります。
 当然、解説にはいいものもわかりにくいものもありますから、次のようなことも書かれています。

 日本の現代文学の解説には、しばし次のような特徴が見られる。
①作品を離れて解説者が自分の体験や思索したことを滔々と語る。
②表現、描写、単語などの細部にこだわる。
③作品が生まれた社会的な背景にふれない。
 同人誌的の合評ならいざしらず、解説としては落第だろう。このようにして作品は歴史や社会と切り離され、「ねえねえ、どうなってんの!?」な作品のリストが増える。
 悪習を絶つ方法は簡単である。第一に、五年後、一〇年後の読者を想定して書くこと.第二に、中学校二年生くらいの読者を対象に書くことだ。(145~146ページ)

 こうなると、解説だけにとどまらない問題ですね。友だちに本を薦めることが皆さんもあると思いますが、どうでしょうか? ①から③のようなことはないですか? 少なくとも五年、一〇年後の未来の読者を想定してみると、広がりが出てきます。「中学校二年生くらい」の聞き手(読み手)によくわかる言葉で書こうとすれば、自分でもよくわかっていない部分を再読・三読しなくてはなりません。そうするなかで、読者の内面も磨かれていくのです。どうですか? 早速今日の読書ノートで斎藤さんの言うことを確かめてみては?

2017年2月10日金曜日

中学校でのRWの実践紹介


中学校でのリーディング・ワークショップ(RW)の実践報告を、新潟の吉澤先生が送ってくれましたので紹介します。
(この報告から分かるように、すべては教師の選択です。そうなんです、教師は選択をもっています!)

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RWって本当にすごい! 本の力ってすごいなあと思いました。
この先、どうやってRWを進めていこうかとわくわくしています。

研究授業の要項を作っているとき、RWの定義として、「読書家になる体験を通して読むことを学ぶ」というのがそれほどしっくりこなかったのですが、やってみて、子どもたちが読書家になっていくのを見ていたら、このことか! と体験することで理解できました。

それから、「反応を基にした読み」がすごくよかったです。
例えば、付箋をつけながら読むよといっても実際やったら、どういうふうに書いたらいいかわからなかった。
それを振り返りに書くと、こんなふうにうまく書いていた人がいるよと次のミニ・レッスンで教える。
そうすると、あー、そうかと思って、次にはうまく書ける人が増えていく。
さらに、共有が今ひとつという状況があると、うまくやっていた班の方法を次のミニ・レッスンで紹介する。
実際、やっていた方法、付箋のページを開いてみんなに見える形で本を広げる。
そして次の付箋のページを開いて次の人に本を渡す。
それを見せてやると、共有の時間にちゃんとそれをやっている班が増えていく。
子どもの反応に対して教師が教える内容が変わっていく。
でも、それは生徒にとって今必要なことだから、ちゃんと聞こうとする。
うまくいくとほめられる、のいいサイクルができあがる。
だから、生徒も教師も楽しくなっていくんですね。

私たちのRWは絵本(4時間)から始まって、ミニ・レッスンは
○本を読むとどんないいことがあるか。
○先生の読書のオススメ・アイテム(読む場所や読書アプリなど)。
○付箋はこんなふうに書く。
○共有の時間はどうしたらいいか。
○いい話し合いとは?
などを生徒の振り返りを紹介しながらやりました。

『読書家の時間』では、導入を10時間位でやっていて、やはり軌道に乗るまではそのくらいが必要だなと思いました。
ところが、私たちは教師側の都合で詩の授業をやらなければならなかったので、生徒はもっと絵本を読みたかったのに、詩に切り替えたので、生徒の抵抗が高くなってしまいました。
読みたいものを読ませるのがRWなのにと思いながら、どうしようかと焦りました。
でも、振り返りを読んでみるとかなり読んでいる子たちは詩も新鮮でおもしろかったというのがあったんです。
そこで、絵本と詩の紹介文を書くというのをやってみたのです。
紹介文を書くときに前半には、内容を簡単に紹介するのと、後半には「質問する」と「推測する」の言い回しを入れるという形でモデルを示してやってみたところ、生徒たちが非常に上手に書いてくれました。
それを色画用紙に詩と共に貼って、展覧会みたいにしたところ、詩は絵本と違って何を言いたいのかよくわからないと言っていた子たちもいろいろな詩を見始めたんです。
その詩の展覧会の中から班ごとに読みたい詩を探して、「質問する」と「推測する」で読んでみるというのを公開授業でやりました。

まず、班ごとに読みたい詩を探すときにどんな詩に決まるのかが結構心配だったんですが、何も心配する必要がありませんでした。
かなり読みごたえのある詩を選んできたのです。

—  1班 「くり返す」 谷川俊太郎
—  2班 「あなたがあなたである限り」  にらさわあきこ
—  3班 「短い人生もある」 日野原重明
—  4班 「オランウータン」 やなせたかし
—  5班 「ロボット」 よづき
—  6班 「地雷のあしあと」
—  7班 「オランウータン」 やなせたかし
—  8班 「くり返す」 谷川俊太郎

谷川俊太郎とやなせたかしの詩を2つの班が選んできました。

公開授業のときは、生徒たちもがんばっていたのだと思いますが、前の時間に班ごとに読みの工夫を考えて、発表しただけなのに「質問する」「推測する」だけで相当読めていました。
よく考えた付箋がたくさん貼られました。
こんなに子どもたちの力だけで読めるのだから、教師が余計な説明なんてする必要がないなと思いました。

この時間の生徒の振り返りを紹介します。

○今日は、「くり返す」について、意見を出し合った。他の班の意見は良いものから不思議なものまでいろいろあり、おもしろかった。私もがんばって意見を出したけど、もっとすごい意見を出している人がたくさんいて、すごいと思った。
○今日の授業では、また前回の授業と同じくらい、いや、それ以上のいろいろな人の考えを知ることができた。ただ詩を読むだけで、私が感じた感想や想像でいつもは終わってしまうのに、今日は自分の想像のあとにいろいろな人の想像が見れてそういう考えもあるのか!と思ったりした。とくに7班の人の考え方は私の考え方とはまるでちがっていて、質問や推測を見るのが楽しかった。
○今日はおもしろかった。詩でこんなにも質問や推測が思い浮かぶなんてびっくりした。
○今回の授業では、詩の質問と推測を考えたことにより、詩のおもしろさが伝わりました。他にもこの質問と推測を考えているうちに自分も夢中になったので、またしたいです。


以上は、11月21日に、吉澤さんが書いてくれていた報告でした。
公開の授業研究でやらなければいけないという矛盾を克服しながらの実践でした。
さらに、追伸を10日ほど前にもらいました。

実は、先週からまたRWをスタートしました。
教科書でやらなければならないのは、あと小説を一つくらいになったので、週1でやることにしました。
久しぶりにやるので、生徒3人の本の紹介からやりました。
振り返りにそれぞれの紹介のいいところやどんな話し方が伝わりやすいかを書いた子どもが多かったので、2時間目のミニ・レッスンは、どんな話し方が伝わりやすいかを生徒の振り返りから出てきた、声の大きさ・間の取り方を話題にしました。
振り返りを基に次のミニ・レッスンが決まってくる感じが、体験に理論をつけていく形で、いいなあと思っています。

また楽しくなりそうです。