2017年4月21日金曜日

「自分がなにを知らないか」を知る


 まずは、次の話を読んでみてください。

 ある男がその息子を乗せて車を運転していた。すると、車はダンプカーと激突して大破した。
    救急車で搬送中に、運転していた父親は死亡し、息子は意識不明の重体。
  救急病院の手術室で、運びこまれてきた後者の顔を見た外科医は行きを呑んで、つぎ のような意味のことを口にした。
  「自分はこの手術はできない。なぜならこの怪我人は自分の息子だからだ。」
  これはいったいどういうことか?

 千野帽子さんの『人はなぜ物語を求めるのか』(ちくまプリマー新書27320173月)の冒頭に出てくる「なぞなぞ」です。かなり悲惨は話だと思うのですが、立派な「なぞなぞ」です。答えることができますか? 私は残念ながらさっぱりわかりませんでした。
 この「なぞなぞ」の答えを探ることは、実のところ「わかる」ことの秘密を探ることにつながります。千野さんはこの「なぞなぞ」によって「人間の思考の枠組のひとつである「物語」がどういうものであるか」を教えられたと書いています。しかもそれは、正解を知ったあとだったと言っています。でも、正解を書くわけにはいきませんので、それはぜひ千野さんの本を読んで確かめてください。
 千野さんの本には次のような魅力的な言葉があふれいています。

人間の行動を、ときには、行動した当人ですら、自分がすでに持っているストーリーのパターンで説明してしまいがちだということ、これはたいへん興味深い現象です。人は、自分の行動の動機を説明するのにも、ありもののストーリーを借りてしまう。
 (『人はなぜ物語を求めるのか』139ページ)

ストーリーを言葉で物語るとき、その本文はじつは、(中略)「空所」だらけです。それでも人間はその本文を読み解いて、自分なりにストーリーを構成することができます、そのとき、僕らは手持ちの解釈格子を使っています。
 (『人はなぜ物語を求めるのか』196ページ)

 先ほどの「なぞなぞ」に答えられなかった私のような人は、答えるために重要な情報についての「空所」を自動的にかつ受動的に埋めてしまっていて、自分が知らず知らずのうちにそうしてしまっていること自体に気づかないというわけです。自分の「手持ちの解釈格子」や「ありもののストーリー」が曲者ですね。それゆえに、先ほどの「なぞなぞ」で、状況は具体的に説明されてあっても、よく「わからない」状態に陥ってしまうのです。
 この「なぞなぞ」の正解を知った私は「あぁそうかぁ」では終わらなかったのです。「やられたぁ」でもなかったのです。千野さんの言葉を借りれば、「自分がなにを知らないか」を知ることができたという感慨のようなものを感じていました。これは『理解するってどういうこと?』の41ページに示されている「多様な理解の種類」のなかで「新しい知識や考えや意見を取り入れることで、自分の思考を修正する」ということになるでしょうか。
 この本の「物語」はまさしく「理解」の枠組みのことです。「自分がなにを知らないか」を知る、というのはとても大切な理解の種類ですし、人類の哲学的知見の基盤をなすものでもあります。最新の物語論(ナラトロジー)の幅広い知識(文芸批評だけでなく、社会言語学のそれも含めて)を駆使しながら展開される千野さんの文章は、私の見たところ、すぐれた「理解」論でもあり、平明な言葉で書かれた「理解」哲学でもありました。

2017年4月14日金曜日

年度の初めの「評価」こそが大切


日本で「評価」は、「教えた後にするもの」というイメージが強いのではないでしょうか?

でも、評価には、診断的評価、形成的評価、総括的評価の3種類があります。

「教えた後にする評価」は、総括的評価です。成績というか、評定というか。

しかし、残念ながら成績や評定(=総括的評価)で、子どもたちの学びは改善しません。
教師の教え方も改善しません。

その意味で、総括的評価(成績や評定)よりも大切なのは、診断的評価と形成的評価です。

そして、いまがまさに診断的評価をする時期です。教える前にする評価です。
これをすると、誰に、何を、どう教えたらいいのかが変わりますから、教師にとって他のどれよりも価値があります。(もちろん、形成的評価も、誰に、何を、どう教えたらいいかを左右します! 左右しない場合は、単純にそれをしていないか、していてもその重要性を認識していない、ということになるかと思います。文科省が、17~8年前に「指導と評価の一体化」の名の下に言い始めたことは、まさにそういうことでした。)

子どもたちの状況や様子を知ったら(それも集団としてではなくて、一人ひとりの★、です!)、予定したことを予定通りには教えられなくなることが多々あることになります。
なぜなら、状況や様子がみんな同じなんてことはあり得ませんから!
ある子は、予定していたことはすでに知っていたり、ある子は、予定していたことの前提すらおぼつかなかったり、別な子にとっては予定したことがピッタリだったり、という感じです。当然のことながら、ピッタリの子には予定通りでいいわけですが、すでに知っていたり、できてしまっていたりする子に予定していたことを教えることは、嫌われるだけです。そして、予定したことの前提になるものすらまだ押さえていない子にとっては、意味のない時間になることが約束されています(ちなみに、すでに知っている子にとっても意味のない時間です!)。
 そんな中で、通常教師が予定していた授業がどれだけ機能するかというと、よくて3分の1ぐらいの子たちにしか機能しないことがわかります。ということは、予定したとおり進めると、3分の2ぐらいの子たちにとっては、きわめて面白くない授業というか、意味のない授業が続くことが約束されているということになります。まさに、診断的評価や形成的評価は、それを修正・改善するためにあるといっても過言ではありません!

 もし、このようなこと(=子どもたちの学びを最大化するために、教師が誰に、何を、どう教えたらいいのかを判断する材料を提供し、その判断に基づいて最善の授業をすること)を実現するために、「評価」という言葉を使うのは受け入れがたいというのであれば、「観察」でも、「見とり」でも、「子ども理解」でもいいです。

 年度の最初の数週間に(もちろん、年度の最後まで継続してやり続けることは、価値のあることです! 力点を少しずつ変更しながら)教師がすべきことは、子どもたちの評価ノートならぬ観察ノートを持って、子どもたちが何はできるのかや、何は知っているのかの記録をつけることです。子どもたちの興味・関心についても記録します。(特に、読み・書き・聞く・話すに関連したことは。しかし、それらに限定しないことがポイントです。一般的な興味・関心やこだわりが、読み・書き・聞く・話すの指導をする際の大きな助けになるからです。)
 この観察と記録の期間中に、教師が問うべき質問としては以下のようなものがあります。

・この子の自信のもち具合は?
・この子の読み・書きに対する態度は?
・どんな本を読んだり、書いたりするのが好きか?
・目的をもって読んだり、書いたりしているか?
・物語のセンスのようなものはもっているか?
・どんなこと(もの、本・・・)をおもしろい/楽しいと思っているか?
・読み・書きを関連したものとして捉えているか?
・どんな話し方をするか?(それと、書くこととの関係は?)
・自分のしていることをモニターして、修正・改善することができているか?
・これまでどんな読み・書きの体験をもっているのか?
・どんな読み・書きの方法★★をすでに身につけているのか?
・どんな優れた点があるか(=他の子たちの見本になるようなものをもっているか)?

 根底にあるのは、一人ひとりの子どもを読み手、書き手、聞き手、話し手、考え手、学び手・・・そして素晴らしい人間として、よく知るということです。


★ 一人ひとりをいかす教え方を実現するためには、評価が大切なことが『ようこそ、一人ひとりをいかす教室へ ~ 「違い」を力に変える学び方・教え方』キャロル・トムリンソン著、北大路書房には繰り返し紹介されています。具体的な把握の仕方も。
★★ 読みの方法は、主には、『「読む力」はこうしてつける』新評論や『理解するってどういうこと?』新曜社で紹介されている「7つの理解のための方法」のことです。
   書くときの方法は、『作家の時間』新評論で紹介されている「作家の技」のことです。
★★★ 当然のことながら、上に書いたことは、国語の授業だけでなく、すべての教科に当てはまります。


2017年4月7日金曜日

「12ページのメモや下書きの価値 ➡ 子どもに出す課題に真剣に取り組み、その過程を見せる」

 RWWWの中学校レベルの優れた実践者、ナンシー・アトウェル氏は、詩というジャンルを教えるときには、毎年、ある週末を使って、自分の書けそうな題材リストから、実際に詩を書いて、そして、その過程を子どもたちに伝えています。

 詩を書くために、題材を決め、ブレインストーミングをしたり、メモを取ったり、下書きをしたり、書き直したりし、題名の候補リストを作ったり等々、いろいろなことを行っていますし、校正もします。

 アトウェル氏の本の中にその詩が紹介されていますが、その詩のあとに、「ここまで書くのに12ページのメモや下書きが必要でした」と書かれています。★

 アトウェル氏は、12ページのメモや下書きのプロセスを、プロセスを経た順に並べて子どもたちに渡し、書き手のたどるプロセスを考えさせ、かつ、子どもたちからの質問を受け付けています。

 子どもたちからの質問を見ていると「どうして○○を○○に変えたの?」等、書き手が行っているいろいろな苦労や工夫に目が留まっているのがよくわかります。

 その後には、「いいものを書こうとしている人が行っていること」をみんなで具体的に考え、言語化しています。書き手が行っていることが、本当に多岐にわたり、リストされていますが、たしかに実際に行っていることなので、納得です。

*****

 これを読みながら、いいものを書きたいと思っている人が真剣に取り組んでいるその過程を、はっきりわかるように見せることの、教育的な価値を感じます。

 ➔ そう思うと、新学期、自分が出そうと思っている課題の一つを、自分で真剣に取り組み、その過程をはっきりと段階を追って見せる、ということをやってみたくなります。

 書くことでも、読むことでもいいと思います。その課題を自分がどのように取り組むのか、その過程でどういうことを具体的に行っているのか、その結果、どんな学びをしているのか、それを子どもたちと一緒に辿れるように準備する、ということです。

 書くとき、読むときに、実際に行っている苦労や工夫は、先生は表に出さない(子どもに見せない)ことが、意外に多いかもしれません。

 でも、時にはミニ・レッスンでそれを見せることで、単に「ポーズとして」モデルを見せるのではなくて、本当の意味でモデルを見せることができるように思います。

*****

★ Nancie Atwell 著 In the Middle: A Lifetime of Learnng About Writing, Reading and Adolescents (third edition) Heinemann 社より出版、詩を書く過程で行っていること、それを共有することについての学びは、109~114ページに詳しく書かれています。

2017年3月31日金曜日

2016年度の「いい記憶のライブラリー」


奇跡のレッスン・ゴルフ編(NHK)は、ご覧になられましたか?

そのハイライトは、「いい記憶のライブラリー」をつくるでした。★

皆さんも、ぜひいい記憶を貯めてください。
欠点を補うより(反省ばかりするのではなく★★)、得意なことを伸ばしましょう!
まだ、2016年のハイライトを出す時間は残っています。5~10分で出せますから。

3人の先生たちのハイライト=「いい記憶のライブラリー」を紹介します。(ちょっと長くなりますが、お付き合いください。)

◆Aさん
自分のクラスは、大変ながらも可愛い子たちです。
日本語がおぼつかない保護者と児童の中でしたが、よく書けるようになり、読むのが大好きになってくれました。

うちの学校は年2回読書月間として本の紹介文書くんですが、それが貼り出されるんです。それを見た他の学年の先生が6年生の次にいいのが書けてると、うちのクラス負けたーなんてお褒めをいただきました。文章だけでなくて、レイアウトや切り出し方もかなりいいのができてるよねぇと。
読み書きを大事にしてきたので、とても嬉しかったです。
それがハイライトかなぁと思います。
他の学年の先生に、彼らのやってきたことが認められたので。

日本語が厳しい子もいるので、音読も今年はかなり取り組みました。
声に出すことが楽しくなってくれたようで、教科書の作品のお気に入りを読んで大喜びしていました。
プライドを壊さないように、ローマ字表を使ってひらがな指導やカタカナ指導もしています。3年生なのでほんらいなら、「ちゃ、ちゃ、。。みつけた!」なんてやってる場合でもないんですけど。でも、彼には大きな一歩です。
その彼が最後、総合のやさしいまちづくりという、福祉単元で、楽しい学校ってなんだろう?というテーマで発表しました。
困って立ち尽くす彼に、さっと子供たちが寄り添って一緒に発表をした時、涙が出ました。その子の成長も、その子ができるようになる助けをその場でできた子も、それを固唾を飲んで待ってあげられるみんなにも感動しました。

その子は絵を描くことが得意なので、文と絵を描くということをずっとやってきました。低学年の作家という感じに近かったのですがそれも良かったと振り返っています。

◆Bさん
やってみたいことを学年にどんどん主張してみた
  学年研ではだまって知らない間に行うのではなく、「これをやってみたい」「なぜやってみたいのか」などを話した上で、同意が得られなくてもやる勇気をもって実行した。「作家の時間」など

書くということを継続的に行えるようなシステムを子どもの姿から起こしてみた
自分の考えていること、学んだことを何でも書いていい紙がクラスに常備してあるのだが、それを使って私に毎日のように持ってくる子がいた。クイズを作ったり、料理の仕方を調べてきたり内容は様々。
 そこで、こんなものを机の上に置き、使い方を説明してみた。

新しい物を書いたら「新作みてね」の札を使って情報を発信するという体験を楽しんでもらうようにしてみた。
学年が終わる最後の1月半で「本の紹介」「体育の学習で感じたこと」「手話体験について」など日常生活で感じたことなどを13枚も書いた子がいた。もちろんクラスでもみんなに直接話してもらうことも行った。

学び合う時間を、年間を通して確保してきた

自分の考えていることを伝え合うということを大切にしてきた

自分のしてみたいことを私がしているように、子どもにもそれを保証できるようにしてきた
  ・クラスの係活動(マスコットづくり、マスコットを使った劇、イベントなど)
  ・委員会活動(学校のスローガンづくり、6年生を送る会)~ 全てをゼロから子供と相談しながら立ち上げた。
始めての寄せ書きのプレゼントはデザインも自分たちで考え、紙を準備し、全てのクラスに配布した。6年生もとても喜んでくれ、クラスで掲示されたものを嬉しそうに眺めていてくれていたそうだ。

 児童代表の言葉は、今年は2名の子どもにお願いした。「6年生に手紙を書くように」ということを大切にしながら、どのようなことを一番伝えたいか聞き出し進めていった。
 メッセージの中に「6年生は私達のあこがれの存在」とあり、その言葉を校長が卒業式の言葉の中にも使ってくださるなど、最後まで大切にしてもらえた。
 教職員の振り返りからも、「定型的な贈る言葉でなく、とてもよかった」と贈る言葉だけでなく、今回の活動全般を褒めてもらえた。

自分が学んでいることを楽しんでいることを子どもたちに伝えることで、そのことを体験できる子どもが多くいた
 休日に地蔵について調べていたところ、出会った地域の方が次々とそれに関することを知っている人を一緒に訪ねてくださったおもしろい体験から

この道祖神を見つけてきた子が前掛けを作っている人を地域の人にインタビューを重ねることで自治会長さんに行き着いた。すると地域に住む原さんという方が作っていることが分かり、その方に話を聞きに行くと言うので、私も土曜日に一緒に連れて行ってもらった。すると面白い話が次から次へとでてくるすごい体験ができた。子どものおかげで人材発掘につながった。
 このようなグループがいくつもあり、学年末に向けて学びの様子が著しく向上した。

◆Cさん ~ 作家と読書家の時間を算数に応用する「数学者の時間」に焦点を当てて

・問題作り ~ 子どもたちは、算数でならったことを道具に、発展的に活用している。さらに、出版/共有といった取り組みが、より意欲をかき立てていることがわかった。これは、大きい! 出版/共有により「作家の時間」の延長になれたから。
・算数の授業では、学習コミュニティづくりに徹したことで、教えあったり、共同作業をする指導方法を身につけられた。結果、両輪として、「数学者の時間」にもきいてくることに。現状では、算数の授業は大きく変えられない作りになっているので、算数をうまく「数学者の時間」に、とりこんでしまえた。また、突っ込まれないよう、業者テストとの折り合いをつけ、数値をのこせた。ワークショップをやることで、教員のカリキュラムデザインする技量があがり、単元、教科を俯瞰してみられるようになってきた。
・「数学者の時間」は2学期よりはじめて、合計30時間程度実施できた。3学期には、年間計画のコマ時数を計画することで、おおまかな余剰時数をみつけ、「計画的に」見通しを持って、「数学者の時間」を実践できた。年間計画の面をクリア。週に5時間「算数」+2時間「数学者の時間」が実施できた。来年度は、1学期から、取り組める心の安心感がもてた。
・これらの方法が既存の算数と共存できることを確かめられたことが大きい。算数で学んだ道具をつかって、より発展的に考えていくこと。この辺は、次期学習指導要領の「深い学び」や「教科横断」など、まさにそのまま。そして、「数学者の時間」への子どもたちの評価とニーズが高いことがわかった★★★。教科書ベースの学び合いに疑問を持ち始めている教員たちの、次のステップにこの「数学者の時間」はなるだろうな。


★ もう一つは、コースのパーではなく、「パーソナル・パー」を決めて、それに挑戦することでした。コースのパーを目指していては、新米は悪いところにばかり目が行くことが運命づけられているのに対して、自分が設定したパーなら、容易に乗り越えられるし、いいところにも目が行くからです。要するには、他人が設定した目標よりも、自分自身が設定する目標の大切さです。

★★ 校内研究をして、その紀要の最後には、反省や今後の課題が書いてあります。あれを見て常に思うのは、あれらが改善されることがほとんどないことです。そもそも、「何のために書いているんだろうな?」 校内研究に対する負のイメージをつくりだすだけで? 研究授業も同じようなところがあります。

★★★ この子どもたちの評価とニーズの高さを示すデータを見てみたいという方は、メールをください。お見せします。



2017年3月25日土曜日

カンファランス雑考(2) ~いいなと思ったピア・カンファランスの実例

 1か月前のRWWW便り(ブログは224日、フェイスブックには225日にアップロード)で、ピア・カンファランスについて書きました。その後、ピア・カンファランスについて考えている中で、Jack Wilde氏が書いているものを読みました。★
 
(★タイトルはPeer Conferences: Strategies and Consequencesで、今日のRWWW便りの最後に、全文が読めるURLを記載しておきます。)


 教室で読み聞かせで使った本を使って、書いたものに対するコメントのつけ方を学ぶ練習をする、という実例です。読み書きのつながりも、ピア・カンファランスの効果も実感できる、一つのよい実例だと思いましたので、今日はそれを紹介します。(カッコ内は、自分のメモのためのページ数です。)


 書き手として成長するためには、「うまく書けているものには、どういうことが行われているのか」を知ることが必要です。それを知ろうとするとき、往々にして、自分が取り組み中の作品よりも、人が書いたもので分析するほうが、わかりやすいです。(1ページ)

 

 しかし、人が書いたものに対して、「いいね」とか「よく分からないなあ」というような、漠然としたフィードバックだけだと、次にどうすべきが、よく見えてきません。ですから、「なんとなく」うまく行っているのかどうかではなくて、「具体的に」どうしてうまく行っているのかを知り、それを言語化することができれば、それは、お互いに書いたものを読みあうピア・カンファランスに役立つスキルとなります。(1~2ページ)。

 

 このスキルを身につける練習として、Wilde氏は、自分が、子どもたちに読み聞かせをした本を使っています。読み聞かせをした本を使って、その本では、「具体的」に何が上手く機能して、よい文になっているのかを、学ぶのです。(2ページ)

 

 私がとてもいいなと思ったのは、次の2点です。


1.みんなが同じ本についてコメントしているので、「こういうコメントが具体的でよい」というのを、子どもたちが、他の子どもたちから学ぶこともできること。(2ページ)


2. 読み聞かせで使った本で練習することは、クラスメイトにいきなりピア・カンファランスでコメントする前の練習としては、安心であること。つまり、クラスメイトであれば、うまくコメントできないと、傷つけてしまうようなこともあるからです。(2ページ)

 

この練習は、なぜこの作品がうまく行っているのかを「口頭で言う」ことから、「書く」というところへと発展していきます。子どもの書いた実際の例が、最初の頃のと少し後の時期のが出されていますが、それらをみていると、「どうして、この作品が上手くいっているのかが、具体的に書けるようになり、「良い文とはどんなものか?」という感覚を子どもが身につけているのがよくわかります。(2~3ページ)

 

⇒ こうなれば、人の作品にピア・カンファランスでコメントするときも、具体的に、役に立つコメントができるでしょうし、これは、練習すれば、うまくなるスキルというのがよくわかります。また、同時に、自分の中にも「書き手の目」が育ち、それは、いずれ自分が自分の作品を読むときにも使えると思います。


***** 



 これを読んでいて、もう1点、興味をひかれたのは、コメントを受け取る側の能力についても、言及されていることです。


 つまり、カンファランスで得るものは「助けになる読者の視点」であるものの、それに全面的に従う、ということではないということです。この点については、また別の機会に考えたいと思います。



*****


★ Peer Conferences: Strategies and Consequences の全文は、以下よりお読みください。http://www.learner.org/workshops/writing35/pdf/s6_peer_conferencing.pdf




2017年3月17日金曜日

「違い」を力に変える理解の姿


 『理解するってどういうこと?』の第3章「理解に駆られて」には、著者の母親が急性リンパ腫を発症した時に、著者が父親や兄と一緒にこの病気についてありとあらゆる情報を集めながら懸命にこの病気を理解しようとした「熱烈な学び」の記憶が記されています。著者が24歳の時の出来事で、母親は49歳であったと書かれています。あまりに辛い出来事のなかで行われた「熱烈な学び」のなかで、懸命に母親の病を探る手がかりとなった本の一つに、ハロルド・クシュナーの『なぜ私だけが苦しむのか』(斎藤武訳、岩波現代文庫、2008年、初版はダイアモンド社、1985年)があります。クシュナーはユダヤ教のラビ僧ですが、息子を早老症のために亡くしたことで自身に降りかかった辛い運命を告白しながら、苦悩の中心に立たされた時に人は何をどのように考えればよいのかという問題に取り組んだこの本は、多くの言語に翻訳され世界的なベストセラーになったと言います。
 そのクシュナーの新しい翻訳が出ました。『私の生きた証はどこにあるのか―大人のための人生論―』(松宮克昌訳、岩波現代文庫、2017年)です。「さあ、喜んであなたのパンを食べ、気持よくあなたの酒を飲むがよい。あなたの業を神は受け入れてくださる。」にはじまる、旧約聖書の「コヘレトの言葉」に導かれながら、クシュナーは本書で満足できる人生とは何かという問題に取り組んでいます。彼の思考の根底には、私たちを欲求不満にさせ人生から喜びを奪う」のは「意味の不在」だという考え方があります。これを逆に言うと、満足できる人生のために一番必要なのは人生を意味づけることです。
 人生を意味づけるためには何が必要か。クシュナーは「コヘレトの言葉」をはじめ、ゲーテ、ユング、ピアジェ、ブーバー、ジェームズ、エリクソンら古今東西の知性が残した言葉を引きながらそれをわかりやすく語っていきます。
 「人生を充実して生きてきた、無駄にはしなかったと感じられるために、絶対的に持たねばならない、行わねばならないこと」としてクシュナーは次の三つをあげています。

・人々の一員となる
・痛みを人生の一部として受け入れる
・自分が違いを作りだしてきたことを知る

  最初の二つはいろいろな人が言っていることだと思います。しかし、三番目の「自分が違いを作りだしてきたことを知る」ということはどういう意味で、満足できる人生のために必要なのでしょうか? クシュナーは「人生」を「良書」に喩えて次のように言います。

本に深く入り込めば入り込むほど、ますます本の世界と一体化し意味を理解するようになります。登場人物を理解する目がしっかりと養われ、その前に書かれた出来事の意味がより明確になります。本の終りにたどりつけば、完全に読み遂げたという満足感があります。
 いうなれば人生は芸術作品です。さらに作品の細部にまで愛情深いまなざしを向けるなら、仕上がった作品を誇りに思うことができるでしょう。芸術家は、見ず知らずの人が自分の芸術作品を購入し、また作品が新しいオーナーにどれほど喜びを与えるかを知るすべもないのに、どうして絵を描き、彫刻を作り上げることができるのでしょうか? 作家は、自分の本が何百マイルも離れたところに住む知らない人に読まれ、そのような読者にどんな影響を及ぼすかを知ることもないのに、どうして書くことができるのでしょうか? 私たちがそれらの問いへの答えを知るとき、私たちはなぜ、いつの日か命を召されることをよく承知しながら、人生において懸命に働き、自分の人生を通して何かを作り上げるかを理解するでしょう。そして、他者だけが、私たちの人生を通して作り上げた作品がどれほどよいものであったかを記憶にとどめてくれるでしょう。(224225ページ)

 「自分が違いを作りだしてきたことを知る」とは、「人生」という「作品の細部にまで愛情深いまなざしを向ける」ことを意味します。それは決して自己満足で終わるということではありません。むしろ逆です。自分の作品が未見の「他者」に受けいられるかどうかもわからないのに、それでもその未見の誰かに向けて作品を表現しようとすることが、その人を豊かにするということだと思います。そして、「自分が違いを作りだしてきたことを知る」ことができるのも、クシュナーの言う通り「他者」がそれを伝えてくれるからなのではないでしょうか。

自分自身の生活に閉じこもろうとするのではなく、他者とその世界に違いをもたらしながら、いかに他者と人生を分かち合えるかを学ぶかどうかは、重大なことです。(249ページ)

『私の生きた証はどこにあるのか』には、『理解するってどういうこと?』と重なる言葉が少なくありません。クシュナーの本は〈私たちが生きている証とは何か〉についての本なのですから、人間存在そのものの「理解」について書かれてあるのは当然と言えば当然なのかもしれません。『理解するってどういうこと?』もまた、本や文章の理解にとどまらず、人間を理解するということについての本です。一方は「満足できる人生」を探究し、もう一方は「理解すること」を探究していますが、ともに私たちの人生が「意味づけ」を必要とするものだと言っています。その「意味づけ」とは、クシュナーの言葉で言えば自らのつくり出してきた「違い」に自覚的になる、ということなのではないでしょうか。「違い」をもたらしながら、いかに他者と人生を分かち合うかを考える。そのことによって「違い」を力に変える理解の姿を、クシュナーは教えていると思います。

2017年3月10日金曜日

新刊紹介


 先月に続いての新刊案内で、すみません。

『ようこそ、一人ひとりをいかす教室へ ~ 「違い」を力に変える学び方・教え方』(キャロル・トムリンソン著、北大路書房)の発売予定が大幅に前倒しになり、3月28日だったのが17日になりました。そうです、来週の今日です。

原書のタイトルは、The differentiated classroom : responding to the needs of all learners, Second editionです。欧米では、differentiated instructionの名前で、2000年以降は教育の5本ぐらいの柱の一つとして脚光を浴び続けています。それが残念ながら日本にはこれまで紹介されませんでした。(こんないい学び方・教え方がなぜ、と思ってしまいます。それほど、日本の教育は鎖国状態にあり続けています!)従って、耳慣れないのは当然なのです。
differentiationには、区別、識別、分化、特殊化、差別化、差を認めることなどの意味があります。しかし、私たち3人の訳者は、それらのいずれも使わないことにしました。誤解を招きそうな言葉ばかりですから。その代わりに(かなりもがいた結果?!)選んだのが「一人ひとりをいかす」だったのです。この「一人ひとりをいかす」という言葉の中に、生徒一人ひとりが多様な能力や可能性をもっていること、一人ひとりの興味関心、既有の知識・理解、学び方や学習履歴などの違いや多様性を大切にすること、一人ひとりの学習上のニーズに応じる質の高いカリキュラムや多様な教え方・学び方をデザインして実践することなど、本書で提案されているdifferentiationの奥深い意味を込めたのです。


  この本の中には残念ながら紹介されていませんが、私は一人ひとりをいかす学び方・教え方として、もっとも優れているものの一つがリーディング・ワークショップとライティング・ワークショップ(RWとWW)だと思っています。だからこそ、日本で紹介しはじめました!!
 それは、この本を読んでいただければ、理解していただけると思います。そして、この本がまさにRWとWWを実践する際の理論的な裏づけにもなります。
 詳しい目次は、http://comingbook.honzuki.jp/?detail=9784762829598 をご覧ください。
 正直なところ、私自身はあまり乗り気ではないのですが・・・
http://projectbetterschool.blogspot.jp/2015/03/blog-post.html に書いたような理由で・・・しかし、これから少なくともしばらくの間(?)は付き合わざるを得ない「主体的・対話的で深い学び(アクティブ・ラーニング)」にも、この本は最適です。というか、これまでに日本で出版されたアクティブ・ラーニング関連のどの本よりも、現場の先生のニーズに応えるものになっていると思います。

◆訳者による割引注文を、以下の要領で受け付けます。

1冊(書店およびネット価格)2592円のところ、
訳者割引だと     1冊=2200円(税・送料込み)です。★
なんと、400円弱もお得です!

ご希望の方は、①冊数、②名前、③住所、④電話番号を
 pro.workshop@gmail.com お知らせください。


★ 『理解するってどういうこと?』と争うぐらいに、中身の濃い内容なので、この値段でも十分に元が取れます。また、『理解するってどういうこと?』の場合と同じで、訳者の努力によって原書の値段よりも安くなっています。それに加えての訳者割引ですから、超お買い得です。