2013年8月30日金曜日

観察 → 時間+話し合い

 16日に観察について書いた後に、以下の文章を付け足しました。

 さらに言えば、モータリーゼーション等の社会のスピード化が物事を見えなくしている(=孤独な思索と観察をさせなくしている)原因にもなっているようです。これは、まずいですね。
 社会自体がおかしくなっていくのが、うなずけてしまいます。(うなずくだけでは、それこそまずいのですが!!)

 WWとRWには、時間をゆっくりにして考える効果が確実にあります。
 このブログの初回に書き込んだ「WWが成功する要因」を、もう一度読んでみてください。
 その意味では、WWやRWはいまの社会の動きに逆らうアプローチです。
 教科書単元をこなしたり、ブツギリの言語活動をやったりするアプローチと違って。そして、ほとんど何も明らかにすることのないテストと。これらは、社会の忙しさとセットになっていると思います。その準備をしているというか。

 いま翻訳している本(仮題『理解するってどういうこと?』)でも、その時間をかけないことが理解の妨げになっていることが指摘されています。
 ゆっくり時間をかけて、観察すること、聞くこと、思いふけること(書いていない/見えていない/聞こえていないことまで、自分の頭の中で考えること)が理解には欠かせないことが。

 時間をかけることと同じレベルで、通常の授業で欠落しているのが話し合うことです。教師が一人でがんばって話し続けているのですから、生徒同士が考えていること(書いたこと、読んだこと)を話し合うことを、奪い去っているだけです。どちらにより価値があるかといったら、確実に後者の生徒たちが話し合うほうです。

 その時間を確保するためには、時間が必要ですし、そのためには教師の話す時間を短縮するという関係にあります。教師が教えたこと(話したこと)イコール生徒たちが学ぶことではないことを思い出してください。
聞いたことは、10%しか残りません。それに対して、話し合ったことは40%です。教えあった時は、なんと90%残ります。(出典:『効果10倍の教える技術』PHP新書、27ページ)
 どうせ時間を費やすなら、残る量が多いほうをした方がいいことは明らかです。そのためには、教師は話さず、生徒たちにこそ話させた方が誰にとってもいいでしょう(もちろん、価値のあることを話し合わなければ意味はありませんが)。


    <メルマガからの続き>


 実際に、観察したり、書いたり、読んだり、考えたりする(=体験を通して学ぶ)ことで残るのは、80%と言われています。(出典:同上)
 それは、自分が理解するために、主体的な努力をしているからです。
 聞かされたり(10%)や見せられたり(15%)のレベルではなく。

 とてもきれいなパワーポイント・プレゼンテーションが残らないのも、この数字で明らかだと思います。その時は、「すばらしいプレゼン」と思っても、残らない体験をお持ちではありませんか?(効果的なプレゼンに関心のある方は、ぜひ『最高のプレゼンテーション』をご覧ください。ちなみに、授業はプレゼンテーションです。)

 一般的に、教師が話した方が(教えてしまった方が)効果的という間違った捉え方がずっとされているので ~ これは、いったいどこではじまったのでしょうか? 大学の講義? ~ 習慣として、教師のみががんばる一斉授業が延々と続いています。

 話したくなったときは、ぜひ、聞かせたときは10%しか残らず、子どもたちに話させたときは40%残り、体験したときは80%、教えさせたときは90%残ることを思い出して、自分の話す時間を最小限にとどめてください。そうすることによってしか、子どもたちの学びや理解を促進することができませんから。

2013年8月23日金曜日

RW と WWを説明するには?

  RWとWWが、短時間で、うまく説明できなくて困っています。

  特に、RWにもWWにも特に興味がなく、しかも実践しやすい環境にいるとは思えない人に対して、RWは説明がしにくいです。

  皆さんでしたら、どう説明されますか? 接点のまったくない中で、「書く題材、読む題材の選択が大切です」と言っても、「はあ?」だと思います。特にRWは、本もそろっていない中でそんなことを言われても、しらけてしまうと思います。

「ミニ・レッスン → ひたすら読む(書く)時間 →共有の時間」という1時間の流れの枠組みも従来の時間の使い方と大きく違うし、「教師の役割」、「カンファランス」、「評価」なども、先生によっては、180度考え方を変える必要のある異次元の世界かもしれません。

  どこから何をどう説明すれば、もしかすると接点を見出してもらえるものがあるのだろうか? とも考えます。

  なかなかうまくいかない中で、自分なりに現時点で整理できてきたことは、次の三つです。

 1)私たちが、本当に読むとき、本当に書くときに行っているプロセスをしっかり自覚して、それが授業でできるようにする。そのために、モデルを示したり、段階を追ってできるようにしたりする。

→ そのプロセスをできるだけ体験してもらう。

 2)RWやWWは、子どもたちが、上のようなプロセスを行えるような環境のなかで、その行っている過程で関わって教えることでもある。

 3)教師が選択したものの中での選択。

→ これは注意しないと、RWやWWの力を損なってしまう可能性もあります。自分で選んだ(読む・書く)題材だから、時間もエネルギーもかけたいと思えます。また、いろいろな可能性をもっている子どもたちを、教師の枠だけに押し込めるのは、子どもに失礼かもしれません。

  しかし、特に、最初の段階は、教師が厳選したものの中から、子どもたちが選ぶことにも価値があると思います。

  いつも教師が選択したものの中からだと、自転車を補助輪つきで乗っているようなものですから、もちろん、補助輪を外していくことを意識することは極めて大切です。

  みなさんでしたら、RWやWWは、どのように説明されますか? 興味のない先生には、どのあたりに接点になるかもしれない点、興味を持ってもらえるかもしれない点があると思われますか?

2013年8月16日金曜日

観察

 WWとRWの教師は、観察をとても大切にしています。
 書き手にも、観察は不可欠です。 読み手にとっては?

 その観察がらみで、2冊のおもしろい本を読んだので紹介します。

 1冊目は、『ピーター・ラビットの野帳(フィールドノート)』
 本は、ピーター・ラビットの作者のビアトリクス・ポターが残したフィールドノートを紹介した本です。(彼女は、時代が違えば、生物学者=植物学者になっていてもおかしくない人でした! というか、下でわかるように普通の郵便配達夫が植物学者だった時代に彼女は生きていたのかもしれません。)

「訳者まえがき」には、「細密で、美しく、描くことの才能に満ちた作品群であった。美しい細密画は、正しくすぐれた観察眼なくして成立し得ない。観察眼は見るだけの力ではない、解釈し、理解する力を伴わなければならない」と書いてありました。

 そして、「解説」には、「彼女に限らず、実際に自然を観察するナチュラリストたちは、じっくり時間をかけ、観察することで、疑問を抱き、その解答を得ようと観察を続ける。不思議は不思議を生むのである。そして観察は、小さいけれども答えをほのめかしてくれる。これは実際に観察を行い、実験を繰り返したものでなければわからない喜びであろう。そこには専門家とか、身分とか、男女だとか、貧富の差だとかは関係がない。あるのは観察する力、不思議を抱く好奇心、じっくり結果を考える時間、結果からさらに新たな方向を推察する力、そして自然の歩みのゆっくりさに耐えられる忍耐力を持っていることである」とあります。まさに、探究のサイクルを回し続けている、といえないでしょうか。

 さらに、ポターは日記をつけていたのですが、その中には以下のような一節が書かれていたそうです。ちなみに、郵便配達夫のチャールズ・マッキントッシュが、彼女のキノコ観察の先生でした。「(チャールズの)後任の郵便配達夫は三輪車を持っていたので(チャールズのように歩き続け)足を痛くすることはなかったかもしれないが、近代生活や便利な機械というものは、個性とか自然誌研究には縁のないものだ。スコットランドの田舎の郵便配達夫といえば、ほとんど例外なく何らかの学問に優れている。たぶん、それは長時間にわたる孤独な思索と観察がもたらした結果なのだろう」(本書、196ページ)

 物事を見る力があることが伝わってきますね!
 さらに言えば、モータリーゼーション等の社会のスピード化が物事を見えなくしている(=孤独な思索と観察をさせなくしている)原因にもなっているようです。これは、まずいですね。
 社会自体がおかしくなっていくのが、うなずけてしまいます。(うなずくだけでは、それこそまずいのですが!!)

 もう一冊は、イタリア人のデザイナー、ブルーノ・ムナーリの『木をかこう』です。こちらは、図工・美術の方により適しているかもしれませんが、見方によっては、観察の大切さも教えてくれる本です。同じシリーズで『太陽をかこう』もあります。
 「たかが木(太陽)ですが、されど木(太陽)」です。
 そして、これが他のいろいろなものに適応できることに気づけたら・・・


大切なおまけ
     「見ること」と「観察すること」の違いは?
     観察する時にしていることをリストアップしてみてください。
     書く時、描く時、考える時には、観察することは欠かせないと思います。それら以外で観察することが欠かせない時は?
     少なくとも、教える時は必ず使いますね。でも、従来の作文指導や読解指導の時に使う「観察」と、WWやRWの時に使う「観察」とは質と量の両面で大分違います。その結果がもたらすものは?

2013年8月9日金曜日

教師の振り返りの項目(その2)~本物の導入~

 7月26日のRWWW便りに引き続き、RWやWWを行っている先生が自分の授業を振り返るときの、振り返りのための項目を考えています。

 前回は、「答えが一つ」と「答えは無限大」のバランスを取りつつも、両方とも教えていましたか? でした。

 今回は、二つ目の項目として、「本物を(ふんだんに)導入していましたか?」 です。

 具体的には二つ。一つは扱う教材の中に、本物に触れる機会がふんだんにあったかどうか。これは読むことにおいて教科書以外のものをたくさん読んだというだけでなく、書くことにおいても、本当の作家の書いたものから学べたのかという点も含みます。もちろんメンター・テキストも。

 もう一つは、読み書きのプロセスの中に、実際に私たちが読み書きをするときに行っていることを行うスペースがあったのか、です。本物の読み書きのプロセスだったのか?ということです。

***** 
 最近、RWやWWが何かということを伝えることの難しさを感じます。「本当に読み書きするときに行っていることを、授業の中にもってくる」という項目も、「RWWWとは何か?」ということを伝える一つの指標なのかも、とも思います。

 そんなことを考えつつ、今回の項目を考えました。

2013年8月2日金曜日

「読者なしには、作者は成長しない」

  タイトルは、塩野七生が『わが友マキアヴェッリ』の第2巻「マキアヴェッリは、なにをしたか」の32ページに書いていることです。マキアヴェッリがあれだけいろいろ書けたのは、確実に読者がいたからです。★

 従来の作文指導や日記指導では、子どもたちが書いた作品を読むのは教師だけです。(教師の視点でいいと思ったものが、クラス便りなどで紹介されることはありますが。)
 それに対して、ライティング・ワークショップ(WW)では、最初から本当にいる読者(教師も含まれることもあり得ますが、それ以外の方が多い!)を想定して書きます。

 まさに「読者なしには、作者は成長しない」ことを知っているからです。

 週に2~3時間行われるWWの授業の最後の5~10分は「作家の椅子」と称して、一人か二人の作品を全員の前で読んでもらうこともしています。
 これは、読者に対して作者自身が直接読む時間です。
 しかも、単に読んで終わりではありません。読者たちからのフィードバックがその場でもらえます。それも、作者を成長させる大切な要素です。
 いい点が指摘されたり(自分が気づいていなかったものも含めて)、修正が必要な点が指摘されたり、問われたりします。

 この最後の点は、ひたすら書いている最中にも、子どもたち同士のピア・カンファランスや教師によるカンファランスの形で行われるのが、WWの大きな特徴でもあります。
 書いている最中に改善するのが、最も効果的な方法だからです。
 一度書き終わったと判断したものを、教師がいくらがんばって添削しても、それを参考にして修正しようと思える子は10人いて一人いるかいないかだからです。そんな割に合わないことに時間を費やすのは、時間の無駄です。

 教師がより有効な時間を使う方法としてカンファランスがあり、自分だけのフィードバックだけで作者が成長するのではないことを知っているので、作家の椅子やピア・カンファランスも奨励しますし、そして自分が出版社になって子どもたちの作品をドンドン出版して本当の読者に届けます。

 同じことは、読むこと、聞くこと・話すこと、他の教科でも応用できるはずです。
 しないと、成長できません。


   <メルマガからのつづき>


★ プラス官僚時代は書かないといけない義務が、官職を追放されてからは時間があったことです。もちろん、書きたいテーマも。

★★  おまけ1: 教師だけが読者の問題点、いくつあげられますか?

★★★ おまけ2: カンファランスのときに、子どもたちに読み手を意識してもらうための質問:
       読み手は誰に設定したの?
       説得したいのは誰?
       読み手からどんな反応を得たいの?

 私たち自身、書くときにこんなことを考えて、書いているでしょうか?
 学校が出している研究紀要や研究会の資料等を読んで、これらにしっかり応える形で書かれているものを見つけるのは極めて稀です。(すべてがすべて、前例主義で書いてあるだけなので、最初から「読む必要はない」と判断してしまいます。そういえば、PTAの広報紙なども、同じ問題を抱えています。おそらく「悪しき前例主義」を廃さない限りは読んでもらえないと思った方がいいでしょう。それとも、出す側が最初から「読んでほしくない」と思って書いているのでしょうか? 学校でしていること/やらされていることって、こんなことが多すぎると思われませんか? すごい時間とエネルギーの無駄遣いです! 通知表も、これに属する一つではないでしょうか?)