2013年10月31日木曜日

『思考のレッスン』⑪

レッスン5の続きです。


195 定説を疑った次は、
 じっと手を見るということです。つまり、自分の心のなかを眺める、見わたす、調べることがまず大切なのであって、慌てて本を読んではならない。
 なぜ読まないか? もう本はいままでかなり読んでいるからです。そもそも、本をある程度読んでなければ、「不思議だな」という謎は切実には迫ってこない。
196 自分の心のなかの謎と直面して、それを反芻する、ああでもない、こうでもないとひっくり返してみるほうが、実は早いんです(調べるよりも)。
  もう一つ、謎を考えるためには、頭のなかにある程度の隙間をつくっておかなければいけません。ところが、慌てて本を読むと、その隙間が埋まってしまうんですね。
  ほら、昔から、散歩しながら考えるといい、というでしょう。あれは散歩しているときは、本を読むわけに行かないからいいんです。アルキメデスはお風呂に入っていてあの原理を発見した。たぶん彼は風呂のなかでは本を読んでなかったはずです。ガルシア=マルケスは車を運転しているときに『百年の孤独』を、湯川秀樹は布団の中で素粒子論のアイディアが浮かんだ。
  もういっぺん同じことを言いますと、いままで生きて、読んで、かつ考えてきた。そのせいで一応手持ちのカードはあるんですよ。その手持ちのカードをもういっぺん見ましょう。

200~4 比較と分析を行う
 漱石の『坊ちゃん』と『我輩は猫である』は、イギリス18世紀小説の影響されている。
207 比較によって分析が可能になり、分析によって比較ができる。これは考え方のコツとして実に参考になります。

2013年10月25日金曜日

『思考のレッスン』⑩




184 次に大切なことは、「当たり前なんだ」とか「昔からそうだったんだ」と納得してはいけない。昔からそうだったとしても、じゃあなぜ昔からそうだったのかと、子供のように問を発することです。 ← 習慣に流されない。まやかしの「不変」に。疑問をもつ。「なぜ、どうして?」と発する。しかし、それをすると波風を立てることに。これを嫌うのが世間=日本文化。

186 こだわり続ける。その産物としての『忠臣蔵とは何か』 ~ 怨霊信仰 ← 『逆説の日本史』の井沢さんが言い出したことじゃないんだ。おそらく、はるか前から。古代から?

187 常に謎を意識することが大事なんです。
  ところが、謎を意識化すればすぐに答えが出るかというと、そううまくは行かない。でも、あせるのは禁物です。謎を解くには時間がかかるものなのです。時間をかければ、そのうちに何かが訪れる・・・・かもしれません。
188 謎は大事にとっておくとたとえ50年後であろうと解けることがあるわけです。
189 定説・通説を検討してみる
   歌舞伎の勘九郎さん(=この前亡くなった勘三郎さん)が「演技で大事なのは型である」と言う。同時に、「その型をするときに、なぜこういう演技になったのかを考えることが大切だ」とも言ってるんですね。
190 型の生まれたゆえん、自分と型との関係、そういったことを考えないで、ただ型をなぞるのでは意味がない。つまり通説、定説に無批判に盲従していても意味はないということです。それは官僚主義というものですね。ところが日本の学者には官僚が実に多い。→ 教科書は「型」。それを疑問に思わずにカバーし続けるのは、考えない人がすること!国文学者、あるいは近代日本文学研究者が、国文学の定説、近代日本文学の定説を管理する官僚になっている。そこからは新しいものは何も生まれません。
    だから、ものを考えようと思ったら、専門家に笑われてもいいと度胸を決めることが必要です。第一、専門家と言ったって、なにも全員が偉いわけじゃない。
    しかも、定説といわれるものが、学者たちの世界の、漠然とした、かなり無責任な世論にすぎないことはよくあることです。通説だってかなりあやしいものがある。
191 ことに文化的な大きな変動期には、いろんな条件が揺れて、新しいものが見えてくることがあります。それがパラダイムの転換ですね。ものの見方の約束ごと、考え方の約束ごとが根底から変化する。いまわれわれが生きていること時代など、まさしくパラダイムの転換の時代ですよね。 ← しかし、残念ながら世間の住人たちは、そう思いたくない。考えるのがイヤだから。
193 忠臣蔵の場合は、もっとひどかった。つまり、日本で最も重要な説話なのに、まともに論じた人は誰もいなかったわけです。因習としての思考どころの騒ぎじゃなくて、因習化した無思考だったわけですよ。 ← これがすべての分野で充満している日本!?

2013年10月23日水曜日

『思考のレッスン』⑨

レッスン5: 考えるコツ

180 考えるコツは、良い問=不思議だな~や謎をもつこと
    いかに「謎」(問)を育てるかが大切!!

181 一番大事なのは、謎を自分の心に銘記して、常になぜだろう、どうしてだろうと思い続ける。思い続けて謎を明確化、意識化することです。そのためには、自分のなかに他者を作って、そのもう一人の自分に謎を突きつけていく必要があります。
    普通の意味で他者といえば、世間のことですね。ところが、世間を相手にしてはならない。なぜかといえば、世間は謎を意識しないからです。そんなことにいちいちこだわっていると成り立っていかないから、もっぱら流行に従って暮す。それが世間というものなんですね。 ← 世間は考えない。流されるだけ!!

183 なぜそうなったかと言えば、世間というものが実に臆病だからですね。
 しかも、世間は非常に付和雷同型です。自分にしっかりとした考えがなく、他人の言動にすぐ同調すること ← 阿部謹也さんの世間論に通じる部分

 翻訳劇はくだらないの大合唱。ちょっと考えれば、創作劇も翻訳劇も、両方が大事なのはわかることなのに。 ← 教育も同じ。日本式にこだわり続ける。たいした実践もないのに。すぐになびきやすい。自分がないから。考えないから。誰かに考えてもらうというか、指示されるのに慣れきっているから。ある意味では、それの練習の場というか、洗脳される場としての学校。


 日本文化は臆病と付和雷同とをくっつけたようなところがあります。その中でものを考えるのは、たいへんむずかしい。 ← みんなが考えない理由がここにあった。流されて、仕事をしているつもりになれていた方が、はるかに楽。 考え始めたら、それを実現できない(一歩も踏み出し始めない)自分に気がつくだけだから。考えない方が楽!! 

2013年10月21日月曜日

『思考のレッスン』⑧

レッスン4: 本を読むコツ

158~162 複数の版や訳を読む
163 本はバラバラに破って読め  → たしか、井上ひさしもしてた!!
167 索引を作る → これも
170 インデックス・リーディング
171 人物表・年表づくり  +地図づくり(井上ひさし、司馬遼太郎)
172 ペレス・ダルドスの『フォルトルナータとハシンタ』(水声社)
    『男もの女もの』所収の「出雲のお国」
    小説家が文藝手帖を持っているように、歴史家たちは歴史手帳をもっている。
174 ミッチェルの『物語について』(平凡社)

176 自分で考えることもしないで、「何か本はないか」 ~ これがよくなかった。
    何かに逢着したとき、大事なのは、まず頭を動かすこと。ある程度の時間をかけて自分一人でじ~っと考える。考えるにあたって必要な本は、それまでにかなり読んでるはずです。頭の中にある今までの資産を使って考える。それを僕は怠った。これじゃあまるで(行く先を聞く前に、メーターを下ろして、あとで聞く)東京のタクシーの運転手だなと思った。


177 ですから、大事なのは本を読むことではなく、考えること。まず考えれば、何を読めばいいかだってわかるんです。

2013年10月18日金曜日

『思考のレッスン』⑦

132 いい本や大事なところは、繰り返して読んだり、あるいは何年か間隔をおいて読む。

135 2つのおもしろさ: 「わかるからおもしろい」と「わからないからおもしろい」
  人間がものを書くときも、表現したいから書く場合と、秘匿したいから書く場合とがあるわけですね。2つがまじっている。読むほうは、その両方を考えながら読まなければならない。つまり読者は、著者の深層心理まで読み解く精神分析医にならなければならないわけです。
  特に文学作品には、作者が見た夢という性格があるでしょう。精神分析医が夢の解釈をするように、それを読み解いていかなければ、表面だけ、字面だけで読んだといってもダメなんですね。

138 本は原則として忙しいときに読むべきものです。まとまった時間があったらものを考えよう。
    誰かの名文句に、「書を捨てて街へ出よう」というのがあったでしょう。これは読書論としてたいへん有益ですね。・・・とにかく手ぶらで、ものを考えよう。
    きょうは暇だから本を読もうというのは、あれは間違いです。きょう暇だったら、のんびりと考えなくちゃあ。考えれば何かの方向が出てくる。何かの方向が出てきたら、それにしたがってまた読めばいい。
    そして、考えたあげく、これは読まなければならない本だとわかれば、下嫌いしていたサドでも、徳富蘇峰でも、その必要のせいでおもしろく読めるんですよ。

141~156 自分のホームグランドをもつ → 得意領域と言えるものをもつ


2013年10月16日水曜日

『思考のレッスン』⑥

 前回紹介したエルンスト・H・ゴンブリッチの本を探して読み始めました。『若い読者のための世界史』は、とてもいいです。この本、著者が25歳の1935年に書かれた本を50年後に復刊したものです。従って、最後に「50年後のあとがき」がついています。日本の教科書(日本史や世界史)もこういう形式で書かれたら、読む方にとってはありがたい気がしました。

 それでは、『思考のレッスン』に戻ります。(左側の数字は、ページ数です。)

126 日本の場合、外国とくらべて言葉の使い方が曖昧なんですね。「言葉のストライク・ゾーン」(その中に入っていれば、言葉の意味として正しいとみなされる範囲)が外国語の場合のほうがずっとはっきりしている。日本人の場合、ストライク・ゾーンが非常に朦朧としていて、投げる投手ごとに千差万別である。
 それだからなおさらですが、本を読む場合、言葉の使い方に注意しながら読むことが大切です。著者がその言葉をどのような意味で使っているかを、批判的、分析的に読む。・・・・それを考えないと、字面をなぞるだけに終って、行間を読む、眼光紙背に徹するということにはならない。紙の裏まで見通すという意味から、書を読むとき、字句を解釈するばかりでなく、行間にひそむ深い意味までよく理解することのたとえ

127 ニーチェの自叙伝的作品『この人を見よ』 安倍能成 << 手塚富雄 訳
  訳書は、比べ読みをしないとダメ!!
128 日本の評論は、文体を論じるということがほとんどない。日本の近代文化は文体を軽視する性格のものでした。
  しかし、文体に気を配って読まなければ、ほんとうに文章を理解することはできないんじゃないか、僕はそう思ってるんですね。
129 『ユリシーズ』を訳したときの紹介(祝詞、古事記、源氏物語、平家、西鶴、漱石、谷崎・・・と、文体をどんどん変えて訳したんです)


2013年10月14日月曜日

『思考のレッスン』⑤

114 「一冊の本」はありえない。
    孤立した一冊の本ではなく、「本の世界」というものと向き合う、その中に入る。本との付き合いは、これが大切なんです。 ← まさに、リーディング・ワークショップのアプローチ!!
    芥川龍之介の短篇集の広がり ~ 師である夏目漱石、森鴎外、アナトール・フランスの書いたものとつながっている。『侏儒の言葉』はアフォリズム集ですから、萩原朔太郎のアフォリズムとか、ニーチェのアフォリズムといったものとのつながりもある。
~117にかけて、他のつながりの例の紹介 (要するに、たくさんの本の紹介)

117 書評を読むと、本選びのカンがわかります。
118 書評を書いた人の本を読む。ひいき筋の書評家を持つことですね。 ~ 書評と読書感想文の大きなギャップ!! まだ「紹介文」の方が近いのでは? ぜひ、できるだけ早く読書感想文を葬り去ることを祈っています!

119 学者の本というと、「むずかしそうだ」と怖じ気ついてしまうけれど、これは何と言っても読むべきです。なにしろ彼らは、優秀な人はうんと優秀だし、一生それ専門で勉強してるから良くできる。
 →「経子史要覧(荻生徂徠)」 「ソクラテス以前以後(コーンフォード)」

121 小説 と 逸話
123 批評、回想録、自伝、伝記、インタビューも参考になる 多様なジャンル
 → 『生涯を通じての関心』(ゴンブリッチ) 日本語には訳されていない??

124 レヴィ=ストロースのピカソ評 = 偉い学者が自分の学問の範疇からちょっと離れたところでものを言うと、まったく新しいものの見方をつかまえることがあるんですね。

2013年10月11日金曜日

『思考のレッスン』④

レッスン3: 思考の準備

102 考えるためには、本を読め
  考えるための準備と言われてまず思い浮かぶのは、「読書」でしょう。ものを考えるには、本を読むことが最も大事なことだという気がします。
  思考の大前提には「生きる」ということがある。でも、まあそれは当たり前だから、まず本を読むことについて考えましょう。

  本を読む上で一番大事なのは何でしょう?
  僕は、おもしろがって読むことだと思うんですね。おもしろがるというエネルギーがなければ、本は読めないし、読んでも身につかない。無理やり読んだって何の益にもならない。・・・その快楽をエネルギーにして進むこと。これですね。
103 逆に言えば、「おもしろくない本は読むな」。 ← ダニエル・ぺナックの「読者の権利10か条」の第一条

105 3つの効用
     情報を得るということ
     考え方を学ぶということ ~ 著者のものの考え方は何が特徴か、どのように論理を構成しているか、と考えると、とてもためになります。
     書き方を学ぶということ ~ 分析的に読む

111 「小説家になりたいなら、大学で外国文学を勉強して、外国の小説の翻訳をやって、小説の書き方を勉強せよ」と従兄弟がアドバイスしてくれました。画家にとって、模写は基本ですから、西洋のものを勉強するのは当たり前なわけです。 ← だから丸谷さんは、ジョイスを中心に英国文学を学んだ!

112 選び方 ~ これは、読みたい本を読むしかないんですね。 ← ぺナックの第五条に近い
  問題は「どういう本を読みたくなるか」というところにあるんじゃないでしょうか。要するに「本の読みたくなるなり方において賢明であれ」と言うしかない。そこに「趣味」という問題が一つ加わるので、なかなかむずかしいわけですが・・・

  「趣味」というのは、たいへん大事な問題なんですね。ところが、その重要な要素を見すごしてすべてのものを論じるのが、現代日本文化の悪い癖だと僕は思っているんです。文学を論じるときも、政治についても、教育問題にしても、趣味の良し悪しということがまったく視野に入ってないでしょう。
  検定制度にそもそも反対ですが、それは別として、いまの小学校の国語教科書の文章はほんとうに趣味が悪い。ただ単に趣味が悪い。戦前の教科書のほうが、イデオロギー的にはおかしかったけれど、文章の趣味という点ではまだマシです。 ← これについて詳しくは、ケチョンケチョンに国語教科書をけなした『完本・日本語のために』をお読みください。

  単に個人の問題ではなくて、一つの社会全体が趣味ということを忘れてしまったものだから、日本がおかしくなった。しかも、そこのところを論じる批評家、評論家がいない。

2013年10月9日水曜日

『思考のレッスン』③

レッスン2: 考え方を励ましてくれた3人 + 一人

3人は、中村真一郎、バフチン(ジョイスも高く評価している)、山崎正和
+1は、吉田健一 (吉田秀和も、レトリックを含めて、頻繁に出てきた)

81 バフチンの『ドストエフスキー論』の2本柱は、ポリフォニー理論とカーニヴァル理論。
82 登場人物それぞれが語る、語り合い、対話によって醸し出されるシンフォニーのようなものが、ドストエフスキーの語りたい内容だととるわけですね。これがポリフォニー理論です。
   カーニヴァル理論というのは、文学には非常に大事な喜劇的文学の流派があって、その流派の根底にあるものは、カーニヴァルによって影響され、つくられた文学形式であるというものです。 ← よくわからない!
   現代日本には、文学は人生の真実を追求し、それによってためになるものでなくてはならないという科学主義的な文学観がはびこっている。それとまったく対立する、いわば「祭祀的文学観」があるんだ、それが大切なんだといってるわけですね。 ← これなら、わかる

88 僕は、「われわれのために書く」あるいは「自己と他者との関係のために書く」というのが、文学のほんとうのあり方だと思うわけです。それが自分と他人の分裂してしまったところが、日本文学の不幸だと思うんですね。

   さらに言えば、「われわれのために書く」というのは、「共同体のために書く」と言い直してもいいわけですね。柿本人麻呂も、紫式部も、近松門左衛門も、芭蕉も、共同体のために書いていたわけです。そういう幸福があじわいにくくなっているのが現代ですね。

2013年10月7日月曜日

『思考のレッスン』②

33 (山形県の)鶴岡というどんより澱んだ、保守的な町に育ったもんだから、僕は、自由にものを考えるということにたいへん憧れたわけですね。← ある意味で、日本中がそんな具合だった? いまも??  それやこれや、いろいろなことが重なって、新しいことを考える人間に対する敬愛の念を強く抱くようになりました。大勢を占める意見に対して同調しないで、異を唱える人を、偉いなあと思うようになったんです。

36 大勢の人が言っていることと違うことを言う、他の人とは違う考え方をする人に共通する生癖は、そのころから現在まで、僕の中でずっと続いているんですね。

47 昭和時代の日本人は、マルクシズムを重視しすぎて、そのために大きな損失を被ったんじゃないかなあ。・・・同情すべき点も多々あると思いますよ。あの軍人支配の国で、一体どうすればまともな社会になるかを考えれば、ついふらふらとマルクシズムに引かれる気持ちもわからぬではない。

50 僕のものの考え方に新味があるとするならば、一つには、そういった政治中心的な、つまりイデオロギー論的な把握というものを初めから避けている。そういうものに興味を感じないというところが大きいんじゃないでしょうか。

  シャーロック・ホームズに代表されるイギリスのアマチュアリズム = 玄人以上の素人 ← とてもデューイのアプローチに近いものがあるので驚き

53 日本は、実に非文学的な国 = レトリックを捨てたから


55 レトリックの欠如。言われてみれば当たり前のことなんだけれども、これで行くと、われわれの文明の性格がたいへんよくわかるし、それからさらに現代生活の問題点が実によく心に迫る。 (英語でピーチ・メルバが、現代日本では「すぐりのジャム・桃・バニラアイスクリーム・キャラメル和えアーモンド」になる。「ピーチ・メルバ」という言葉のもつポエティックな喚起力がまったくない。)

2013年10月4日金曜日

丸谷才一の『思考のレッスン』①

 3月に、鶴見俊輔の『文章心得帖』桑原武夫の『文章作法』を紹介しましたが、今回は丸谷才一の『思考のレッスン』です。前の2つが「書くこと」に特化していました(とは言っても、両方とも「生きること」そのものとも言えなくはありませんでした)が、丸谷さんのはタイトルの通り、「読むこと」と「書くこと」も踏まえた「考えること」=「生きること」がテーマです。★ 一回ではとても紹介しきれないので、連載で行きますが、長くなるので、全部はメルマガでは流しません。興味を持たれた方はたまにブログを覗いてみてください。

 上の2人もそうですし、丸谷さんもそうですが、いわゆる国語関係者ではない人たちの方が参考になることを書いているというのが、過去のこのブログからもお分かりいただけると思います。

 章は、全部で6つのレッスンで構成されています。もともとは雑誌の「本の話」で連載されたインタビューだったので、とても読みやすい本でもあります。(インタビューなので、口語体で、丸谷さん得意の「旧仮名遣い」にもなっていません!!)
 章立ては、以下の通りです。
              レッスン1: 思考の型の形成史
              レッスン2: 考え方を励ましてくれた3人
    レッスン3: 思考の準備
    レッスン4: 本を読むコツ
    レッスン5: 考えるコツ
    レッスン6: 書き方のコツ

初回に紹介するのは、レッスン1の半分です。数字は、文庫版のページ数。青の斜字は、私のコメントです。

●レッスン1: 思考の型の形成史

12 「正しくて、おもしろくて、新しいことを、上手に」書くのが文筆業者の仕事。
 四拍子全部がそろうことはなかなかむずかしいので、せめて新味のあることを言うのを心がけるべきではないか。

  僕は、「遊び心」をとても大切にしています。新しいことを言い出す遊び心というか、遊びとしての新しい意見、みたいな気持ちがあるんですね。


   <メルマガからの続き>


14 十代の十年間(=19351945年)、僕には不思議で不思議でたまらないことがいっぱいありました。中でも、2つことがらがどうしてもわからなかった。
 その一つは、なぜ日本はこういう愚劣な戦争 ~つまり日中戦争を始めてしまったのか、どう見たって先行き見込みはないのに、なぜそれをずるずる続けていくのか、ということでした。
 まさかその上、アメリカと戦争するなんて、これ以上バカなことをするはずはない、絶対にやらないと思ってましたよ。 ← 10代のまともな少年(青年)にわかることが、大の大人たちにとっては理解できなかった?

17 もう一つの謎は、「日本の小説はなぜこんなに景気が悪いことばかり扱うんだろう」ということでした。 志賀直哉しかり、正宗白鳥しかり。

20 「どうもこの戦争で自分は死ぬらしいなあ」という気持ちがかなりあったわけですね・・・・2つの謎が解けたらいいなあとは思うけれども、解ける見込みがあるとも思わない・・・・それが、僕の人生の基本的な条件だったんじゃないでしょうか。

23 本を読まない時代に、読んではいけない本を乱読する

25 フレイザーの『サイキス・タスク』(岩波文庫)を読んで、「ああ、なるほど。国王崇拝というのは原住民の信仰なんだなあ」と思って納得したことを、いまでも覚えている。つまり「現代日本人というのは、原住民と同じなんだなあ。原住民の信仰みたいなものを利用して、軍人が威張っているのがいまの日本の社会の構造なんだ」と思って、それが昭和十年代の僕の心の支えのようになっていた。 ← 構造は、いまも変わらない。そういえば、デューイが日本に来て批判したのもまさにこの点。覚めた目の人には見えてしまう! ちなみに、丸谷さんは約40年後の1982年に『裏声で歌へ君が代』を執筆。

26 「本を読むな」とペアになっていたのが、「暗記せよ」ということでした。「勅語」とか、「生徒心得」といったものを、ただやみくものに暗記する。筆写する。

28 精神教育と称していたけれども、あれはつまり富国強兵の具体的な方策が何もなかったから、ああいう呪文によって間に合わせていたわけね、結局。~ 丸谷さんにとっては、ずいぶん生きにくい時代だったでしょうね。
 でも逆に、そういう「大真面目、バカ真面目、くそ真面目」への反発があって、僕の遊び心が養われたということはあるでしょう。そのせいでいま、戯文的随筆を書くのが好き、滑稽小説、喜劇小説を書きたいという気持ちがあるような気がしますね。



★ 私は、基本的に本(日本語の)は買いません。図書館で借りて読めるからです。鶴見さんのも桑原さんのも、そうして読みました。丸谷さんのは、読み終わって、すべてノートもとった後に、娘にも読ませたいと思ったのと、自分の手元においておきたかったので購入しました。それほどの本でした。本を買ったのは、過去3年ぐらいで3冊目です。

 すでにこの本を読まれている方は、私がどんなところを面白いと思ったのか、比較してみてください。感想やフィードバックは大歓迎です。