2013年11月29日金曜日

目的を持って読む

「どういう目的で読むのかによっても読み方は変わるし、読んでいるもののジャンルによっても、読み方は変わりますね」

 そんなことを授業で話し、「どんな読み方をしているのかを振り返ってみて、いくつか読み方のバリエーションの例を教えて」と言ったことがあります。

 「レシピを見るときに、近くのスーパーで簡単に入手できる食材でつくれるかどうか知りたいので、揃える食材のところだけをざっと見る」等々の回答を、こちらは期待するわけです。

 ところが、私の予想に反して、「最初から飛ばさずに読む」と答える人がいます。私は、「え?」と驚くのですが、その横のクラスメートが、「私も、飛ばすと気持ち悪いし、ちゃんと読みたいと思うから、前から順番に読む」と言葉を重ねます。

 実際のところは、無意識のうちにいろいろな読み方をしているとは思いますが、もしかすると、(特に授業で使うものは)、「飛ばさずに、最初からちゃんと読むのがいい読み方」という意識があるのかもしれません。

 ただ、こういう読み方をしているかぎり、「頭の中で全体をまとめつつ、全体を流れるテーマを考えつつ、大切な情報とそうでない情報を区別する」という、理解の助けになるような上手な読み方は、なかなかできないと思います。

*****

 こんな学習者を見ていて、クリス・トバニ氏という教育者が、いろいろな読み方をどうやって教えるかについて書いている本を思い出しました。★

 その本の中に「目的を設定して読む」ことの大切さを述べているページがあります。

 トバニ氏自身が大学のときに、テキストのほとんどに線を引いて、結局、どこが大事が分からないし、頭にも入らなかったという経験も書いています。

 そして「せめて、先生が 授業で話したところや、それに関連するところに印をつけるという目的を設定すれば、 先生が重要だと考えたところがわかって、テストにでたかも」とも振り返っています。

 つまり、読む前に、自分で目的を設定することで、重要な点とそうでない点を区別するという読み方 
がしやすくなるということでもあります。

 そんな話に続けて、「読む前に、自分で目的を設定する」ことを、具体的に教えるのに適した短い英文が、この本には載っています。

 そして、最初は「重要なところに印をつける」という指示のみで読む、次は具体的に、二つの異なる目的が設定されて、それぞれの目的に鑑みて重要なところに、それぞれに違う色で印をつけるという、練習が紹介されています。

 これを見ていると、目的を設定することで読み方が変わることも、目的に応じて、大切な情報を見つけることができるのも、よくわかります。

 「読む前に、自分で目的を設定する」というミニ・レッスンは大切だと思いましたし、そしてこのミニ・レッスンに適した本も、増やしていきたいと思っています。

*****

 ★ Cris Tovani著、I Read It, But I Don't Get It (Stenhouse, 2000年)とい 
う本の、24-26ページに上のようなことが詳しく述べられています。 

2013年11月27日水曜日

丸谷さんがこだわった「書評」



「思考のレッスン」スピンオフ④です。

たまたま『須賀敦子全集・別巻』を読んでいたら、丸谷さんのことについて書いていたところがありました。
「豊富な知識が本の楽しさを倍加する」という須賀氏と向井敏氏との対談の中でです。

このタイトルは、まさに優れた読み手が使っている読み方の一つである、「つながりを見出す(それも、①自分と、②他の本と、③世界と)」そのものです。詳しくは、『「読む力」はこうしてつける』(特に、37ページ)を参照ください。

この対談の中で、以下のように書かれていました。
27 丸谷さんは作家、随筆家、文芸評論家として隠れもない名声の持ち主だけれども、書評家としてもめざましい業績を上げてきた人です。昭和30年代のはじめごろから今日(亡くなる)まで、じつに30年以上にわたって倦むことなく書評にかかわり、ほんの片手間仕事と見られていた書評を本格的に取り組むに価する高レベルの仕事に引きあげるのに力をつくしてきた。
  それに反応するかたちで、須賀さんが「私がイタリアから日本に帰ってきたころ、丸谷さんの小説『たった一人の反乱』を読んで、あ~これでやっと、現代小説理論の視点で作品を書く人が日本にも出てきたな、と非常に安心したことがありました」 ~ 私には、こういう視点はまったくなく、単純におもしろい内容の小説と思って読んだだけでした! ~ と言ったあとに、
28 取りあげたれた本の分野の広さに驚きました。そして、それぞれの切り口の鮮やかさが印象に残りました。また、本を読む楽しさと同時に、書評も読んで楽しいものだという点を大事になさっている。
   たとえば、『チェッリーニ わが生涯』というルネサンス時代に生きた人間の回想と『ベスト オブ 丼』を両方とも読んでみたいと思わせてしまう。
   和歌、俳諧、近代詩、訳詩、持論など、詩歌の分野に属する本にことに力を入れている。
  そして、丸谷さんの場合は、自国の文学と他国の文学(主には、英文学でしたが、広く外国文学)を広く読んでいた。しかも、丸谷さんの場合は現代文学だけでなく、ずっと早くから古典に目を向けていた。それも、情緒からでなく、方法論の観点から。

  書評の話に戻ると、
29 丸谷さんは最初の三行で人を惹きつけなきゃいけないと、よく言うでしょう。その例が、小津次郎の『シェイクスピア伝説』の書評の書き出しです。

  このあとは、池内紀(『モーツァルトとは何か』)と池澤夏樹の本に、話は移行していきますので、省略。 ~ ちなみに、前者の『モーツァルトとは何か』はおもしろかったです!!


追伸: 以前、丸谷さんは文学について百科事典的な知識を持っているのでは、と書きましたが、昨日、それを証明している本を読みました。なんとタイトルも連載で紹介した「思考のレッスン」にひっかけた『文学のレッスン』です。こちらも、インタビュー形式になっていますから、読みやすいです。

2013年11月25日月曜日

読む・書くは、「市民」のベース

 「思考のレッスン」スピンオフ③です。


 なんと、スピンオフの①の最後で書いたこと(思考させない日本の学校や大学)と、スピンオフの②の最後で書いたこと(市民を育てることをしない日本の学校や大学)とは、根底の部分でつながっていると思いませんか?

実は、そのことに気づいてしまったことが、まちづくり(都市計画)が仕事であった私が教育に関わり始める主な要因でもありました。市民の存在なしにまちづくりをすることは不可能なんです。役所のやりたい放題のサポートをし続けることで満足感が得られなくなってしまったからです。

 でも、これって「ニワトリが先か、タマゴが先か」の論争でしょうか?

 スピンオフの②の最後に登場した苫米地ヤス子さんのような人は、少数ですがもちろん日本にいます。受けた教育に関係なく、市民になる人たちは。
 しかし、多くの人たちにとっては、教育(学校および大学)体験は極めて大きいとも思うのです。
 12年+αのあいだに、何をどう考えるか(あるいは考えないか)は、極めて大切なことだと思います。
 それを私たちは、どれだけ真剣に考えたことがあるでしょうか?
 (しかも、右傾化が進行する中で。安倍政権=自民党政権が続く限りは、それがさらに進むことは約束されています。)

 まさに丸谷さんの『思考のレッスン』が必要な所以です。
 もっともっと、考えるということ、読むということ、書くということ、聞くということ、話すということ、話し合うということ、見るということ、するということ、選ぶということなどを大事にしていかないと・・・・。それが、教科書をカバーする授業では、できません。あくまでも正解に集約される授業では。思考停止の授業では。

 バラバラな知識を詰め込むのではなくて、探究のサイクルや、問題解決のサイクルや、作家のサイクルや読書のサイクルを回せるようになることこそが大切なのではないでしょうか? それが、イコール「自立した学び手」であり、「自立した市民」ですから。

2013年11月22日金曜日

科学リテラシー=考えること=読むこと=行動すること

「思考のレッスン」スピンオフ②です。

前回タイトルだけ紹介した『「科学的思考」のレッスン 学校で教えてくれないサイエンス』戸田山和久著のメモです。
当初は、このタイトルですから、このブログで紹介する内容ではないと思ったのですが、接点が多い(多すぎる?)ので、紹介することにしました。

第Ⅰ部は、科学的に考えるってどういうこと、というタイトルのもとに、
   理論、仮説、検証(実験・観察)、説明
   なぜ実験はコントロールされていなければいけないの?
が書かれていました。
 これは、探究(科学)のサイクルのことですが、基本的には作家のサイクルや読書のサイクルと同じです。(両方とも、サイクルを回すことにこそ、価値があります。が、日本の国語教育も、理科教育も、残念ながらそれを放棄する形で行われています。)

 私にとって参考になったのは、第Ⅱ部の、デキル市民の科学リテラシーの方でした。
 「科学者でない私が、なぜ科学リテラシーを学ばなければならないの?」という問いに答えてくれているのです。少し長くなりますが、私のメモを紹介します。(以下、数字は、ページ数。)

205 科学・技術はたえずパターナリズムに陥る危険性があります。パターナリズムとは、専門家がキミたちのことを考えてやってあげるから、素人は黙ってついてこい、という態度です。
206 科学だけではそもそも解決できない問題に対して、科学者だけに判断を強いる結果になるからです。
209 市民は科学をシビリアン・コントロールできるだけの科学リテラシーをもっていないといけない。
210 科学リテラシーは、知識の量にあらず
必要なのは、「科学がどういうふうに進んでいくのか」「科学がどういうふうに政策のなかに組み込まれているのか」「科学はどんな社会的状況が生じたら病んでいくのか」についての知識です。原子力発電の場合もそうです。どういう社会的状況や、どういうセクターの力関係のなかで、疑似科学っぽい危険な技術になってしまったのか。そういうメタ科学的知識が市民の科学リテラシーの重要な部分を占めるでしょう。
213 そのリテラシーを使って市民が科学・技術に関する社会的意思決定にちゃんと参画して、影響力を及ぼせる仕組みを作らないと、ダメですね。
215 その可能性としての、コンセンサス会議
  鍵は、「鍵となる質問」を作成できるか。
217 「フレーミング」=枠組みづくり=何が考える問題なのかを定めること
 問いをたてられるかどうか、が鍵


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 「市民の科学リテラシー」って具体的にはどういうこと?
224 ①提供された科学情報に適切な問いを抱くことができる
233 ②科学の手続きには必ずモデル化と理想化が含まれることを知っている
235 ③1冊の書籍や一つの情報ソースを鵜呑みにしない。複数のソースを比較して、妥当だと思われる説明を取捨選択できる。
     「分かりやすさ」には落とし穴があることを知っている。喩えだけで満足してしまわない。
239 ④科学の特徴である「分からなさ」がきちんと伝えられているかをチェックできる。リスクや確率的なことがらについて妙に断定的な物言いがなされていたら、ちょっと疑う。
243 ⑤科学が不確実なことがらについて何かを言うとき、必ず外挿や推定が含まれていることを知っている。
245 ⑥科学的仮説を分かりやすい言葉で伝えようとするとき、強調点の置き方によって正反対の含意をもつこともあると知っている。
     それを避けるために、できる限り元ネタにちかいソースから情報を入手しようとする。
250 ⑦モデル化と推定の仕方の違いにより、不確実領域を科学が扱うとき、つねにいくつもの異論が並立していることを知っている。
     その異論の背景には政治的対立の可能性があることを知っている。
253 ⑧自分のリスク認知にはバイアスがあるということを知っている。
     バイアスを避けて冷静にリスク判断するツールとして、数値化されたリスクを参考にできる。
260 ⑨科学・技術に「安心」を要求することは合理的で、科学的・学問的に議論できることを知っている。
262 ⑩デキル市民は、リスク論争は安全性やリスクが問題になっているようでいて、その実、フレーミングの不一致に根ざしているのだということを知っている。
     科学技術をめぐる社会的決定の場面で、科学的なリスク評価を尊重しながら、さらに社会、政治、倫理、責任、信頼性・・・も視野に入れた複合的・多元的なフレーミングを提案していける。

 「市民」って誰のこと?
263 市民とは、対話を通じて社会を担っていく主体のこと
264 単に文句を言うのは、「大衆」
269 市民になりたくないなら、科学を学ぶ必要なんか、さらさらない。
  六ヶ所村ラプソディーに登場する苫米地ヤス子さん

 以上です。
 あなたは、どのような感想・印象を持たれましたか?

 私は、「いま学校で行われている理科教育ではダメだ」というものでした。そもそも教科書だけというのが致命的です!! パッと思いつくだけでも、問いを抱かない(①)、一つの情報ソース=教科書を鵜呑みにする(③)、わからなさを伝えない(④)、異論が存在しない(⑦)、社会、政治、倫理、責任、信頼性・・・をまったく無視している(⑩)のですから、未来はないとしかいいようがないです。
 でも、これって全部、国語にも当てはまると思いませんか?

 最後の、「市民」についてもとても共感できます。ちなみに、この視点も理科はゼロです。
 そして、国語も。
 「苫米地ヤス子」で検索したら、動画を見つけました。
 こういう人は、今の理科教育からは出てきません!
 国語教育の結果からは、出てくるかな?

2013年11月20日水曜日

「芋づる式」という読み方


「思考のレッスン」のスピンオフ①です。

今年の春から、鶴見俊輔のブック・プロジェクトをし(鶴見さん本人と彼が推薦する本
をリストアップしたら100冊以上でした)、その後は丸谷才一のブック・プロジェクト
(こちらの方は、約60冊)をしてきました。後者は、まだ継続中。

この読み方は、私が数年前から採用している「芋づる式」という方法です。
いい本は、確実にいい本とつながっているので、「はずれ」がほとんどない
という極めて確率の高い選書法です。

それに対して、あまりよくないのは、タイトルだけで選ぶ方法。
ためしに、「思考」がらみで、以下の3冊にも目を通して見ました。
・大学での学び方 「思考」のレッスン 東谷譲著
・思考のレッスン  竹内薫 & 茂木健一郎著
・「科学的思考」のレッスン 学校で教えてくれないサイエンス  戸田山和久著
その結果、
私にとって参考になったのは、最後の『「科学的思考」のレッスン』だけでした。
残りの2つは、読めませんでした。というか、読むに値するのかな、と。
丸谷さんは、『思考のレッスン』の中で、「書くに値するものを書け」と
くりかえし言っていました。

「思考」関連では、大分前に「これはいいから、ぜひ」と推薦されて
読んだのが『思考の整理学』外山滋比古著。
(アマゾンでも、かなりいい評価を得ています。)
私にとって、参考になったのは、「あとがき」だけでした。
(私の読み方がまずいのかもしれません!!)

ということで、同じ「思考」でも、いろいろあります。
(人によっては、私とは正反対の選択をする人もいるかもしれません。
その意味で、「推薦図書」というのは極めていい加減なもの、と
割り切っていたほうがいいということです!!)


そして、日本の学校・大学ほど、しっかり選書や思考について
教えていないところはないかもしれません。そのことを、
『思考のレッスン』の本の解説を書いてくれていた人が、それを証明
してくれていましたから、ぜひお読みください。

思考力というか、考える力というか、読む力というか、書く力というか、
聞く力というか、話す力というか、見る力というか、する力というか、
選ぶ力を練習したり、磨くことを学校や大学でほとんどしていないのです。
(養っているのは、暗記する力だけ? でも、暗記力は養えるのでしょうか?)

2013年11月15日金曜日

『思考のレッスン』⑰



 ちょっと長くなりますが、レッスン6(=連載)の最終回です。

258 文章で一番大事なことは、最後まで読ませるということです。当たり前のようだけど、これがむずかしい。
259 文章の最低の資格は、最後まで読ませることである。
 アリストテレスの『詩学』にならって、書き出し、半ば、結びについて考えて行きましょう。
   ・挨拶は不要である。いきなり用件に入れ
262 書き出しは、何よりも大事。そこでストップされちゃうから。
    次は、少し高等技術です。書き出しを考えるときに、他の人ならどう書くかなあ、何の話から始めるかなあと考える。その上で、他の人がやりそうなものは全部捨てるんです。
    嫌われないようにするためにはどうすればいいか。それは紋切り型をよすことです。で、その紋切り型の書き出しの最たるものが、さっきの挨拶なんです。
263 半ばのコツは、
・とにかく前へ前へ向かって着実に進むこと。逆戻りしないこと、休まないこと
    → 歌仙が参考に。
    まず自分の書く中身を全部考えて、どうもこの枚数には、これじゃ足りないぞと思ったら、もう一度、考え直す。この内容で何枚書けるかということは、たくさん書くとわかってくるんです。ところが、この考え直すことをみんなしたがらないのね。
264 考える時間が短いから、書く時間が長くなるんです。たくさん考えれば、書く時間は短くてすむ。
   ・終わりの挨拶は書くな。パッと終れ。

  全体に関わる心得を付け加えます。それは「書くに値する内容を持って書く」です。
265 書くに値する内容といっても、別に深刻、荘重、悲壮、天下国家を論じたり人生の哲理を論じたり、重大な事柄である必要はない。ごく軽い笑い話、愉快な話、冗談でもいい。重い軽いは別として、とにかく書くに値すること、人に語るに値すること、それをしっかりと持って書くことが大事なんですね。


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267 内容がないから言葉が出てこないという例があります。それが国語の教科書。
 小学校1年の国語の教科書で最初に出てくる文章:

 はるのはな/あおい あおい/はるの そら/うたえ うたえ/はるの うた

 みんな/あつまれ/もりの なか
 あおい うみ/みつけた/なみの おと/きこえた/みんな/はしれ

採択率の一位と二位なんですよ。

 谷川俊太郎さんの批評:「作者がぜんぜんみえてこない」「無味乾燥といえばいいか、なんの表現にもなっていない」「学校に入って子どもたちが最初に出会う日本語がこんなチープな言葉でいいものか」と、憤慨している。
268 僕の言葉で言えば、言うべきことが何もない人たちが、言うべきことが何もなくて書いた文章がこれなんです。だから「チープな」日本語になるのは当たり前なんです。

 谷川さんたちがつくった小学1年生用の教科書

              ないたり ほえたり さえずったり
              こえをだす いきものは、
              たくさんいるね。
              けれど ことばを
              はなすことの できるのは、
              ひとだけだ。

 これが文章というものなんですね。言いたいことがあって、それを技術や学識、教養を身に備えた人が書いてる。しかし一番大事なのは、言いたいことがあるということです。小学校の1年生が、最初に教科書を開く。その幼い読者に向かって、筆者は何を伝えたいか。人間と言葉との関係について書きたい、言いたい、そういう思いがあるから、これだけの美しい言葉が出てくるわけです。
 だから、言うべきことをわれわれは持たなければならない。言うべきことを持てば、言葉が湧き、文章が生れる。工夫と習練によっては、それが名文になるかもしれません。でも、名文にはならなくたっていい。とにかく内容のあることを書きましょう。
 そのためには、考えること。そう思うんですよ。

2013年11月13日水曜日

『思考のレッスン』⑯



 レッスン6の続きです。

250 当たり前ですが、ものを書くというのは、何か言いたいことがあるから書くわけですね。そのせいで、つい自分の思いのたけをひたむきに述べる、訴えるという書き方になりがちです。でも、どうもこういう書き方はあまりうまく行かない。
  趣味の問題かもしれないけれど、僕はむしろ「対話的な気持ちで書く」というのが書き方のコツだと思う。自分の内部に甲乙二人がいて、その両者がいろんなことを語り合う。ああでもない、こうでもないと議論をして、考えを深めたり当たらし発見をしたりする。
  以前のレッスンでバフチンのポリフォニック理論について話しました。対話的な書き方によってポリフォニックな効果が生まれるんですね。
251 テニスのラリーみたいなもの
252 考えるときには対話的に考える、しかしそれを書くときには、普通の文章の書き方で書く
253 例文  吉田秀和の『モーツァルト』のなかの文章です。
 対話的な構成で作られている文章
254 山崎正和さんとの対談をやったお陰
255 そういう自分のなかの対話を、登場人物を二人出すのではなくて、一人称の文章のなかでやればいい。そう思って僕は書いてきました。
  なお、吉田さんの文章は、レトリック(修辞学)のいい見本でもある。
              列挙があり、比喩があり、譲歩もある
256 ここで大事なのは、ロジックがしっかり通っているからこそ、レトリックが冴えるということなんです。つまり、ロジックとレトリックを組み合わせて話を運ぶ ~ これが肝心なんです。単なるロジックでは頭がこわばってしまって、中身が頭に入りにくい。そこにレトリックがあるお陰で、ロジックが鮮明な形で入ってくる。
  僕が三島由紀夫の文章が気に入らないのは、レトリックはたいへん派手だけれども、ロジックが通っていないことが多いからなんです。

2013年11月10日日曜日

『闊歩する漱石』 丸谷才一著

 丸谷才一さんから抜け出せない私です。


 この本は、夏目漱石と丸谷さんの両者が専門の英文学の視点から漱石の3冊の有名な本『坊ちゃん』『三四郎』『吾輩は猫である』を見てみた本です。
 なんと、これまでとは違った作品像が表れます。
 私たちは、漱石はそもそも英文学を勉強しにイギリスに行ったことを忘れて、彼の作品を読みがちですが、彼ほど自分の作品にそこで学んだことを生かしている作家はいない、というのが丸谷さんの説です。(ほとんど下宿先を出ていなかった漱石ですが、しっかり当時のイギリスでポピュラーだった本は目を通して、自分の血肉にしていた、と。)
 『吾輩は猫である』と『坊ちゃん』は、漱石が東京帝国大学で『十八世紀英文学』を講義してしたのと並行して書かれていたそうな。
 丸谷さんの言葉を借りれば、「『坊ちゃん』はイギリス18世紀文学のことを考へつづけるかたはらに想を構へ、筆を採つた小説であつた。それゆゑもしもあのころの漱石の小説を大学教師の余技とする立場(これが昔は横行した)に立てば、『坊ちゃん』はイギリス18世紀文学研究の副産物と見立てることもできるでせう。そしてもちろんわたしとしては、漱石がフィールディングに刺激され触発されたからこそ、あれだけの名篇を書くことができたと考へるのである。念のために言い添へて置くならば、一般に文学作品は単なる個人の才能によつて出来あがるものではなく、まして個人の体験のみによつて成るものでなく、伝統の力による所が大きい。しかもそれが自国の文学の伝統に限らないことは言ふまでもないでせう」(23ページ)ということです。 ~ この最後の部分は確実に、ノンフィクションにも言えてしまうと思いました。
 とくに、『坊ちゃん』は喜劇小説(滑稽小説、ユーモア小説)の影響を受けている、というのが丸谷さんの主張。特に、ヘンリ・フィールディングの『トム・ジョーンズ』。
 ちなみに、喜劇小説はイギリス文学の特産品で、これには丸谷さんが訳しているジェローム・K・ジェロームの『ボートの三人男』などから、ジェイン・オースティンの『誇りと偏見』やEM・フォスターの『ハワーズ・エンド』も、そしてフィールディングの『トム・ジョーンズ』やスウィフトの『ガリヴァー旅行記』まで含まれます。さらには、それは「シェイクスピアの喜劇に端を発し、18世紀の豪宕な精神にはぐくまれ、ジェイン・オースティンによって洗練され、ディケンズによってふたたび生命力を注がれたあげく、知識人向けと大衆ものの双方に分れて、そのどちらでも活況を呈することになった。ディケンズからそれを学び取った外国作家が、ロシアのドフトエスキーとフランスのプルーストであったとすれば、フィールディングの異邦の弟子は『坊ちゃん』の夏目漱石と『酔ひどれ草の仲買人』のジョン・バースだったでせう」と解説してくれています(28~9ページ) ~ 漱石以外に、この流れをくむ人が日本にはいないのが残念です。いたら、ぜひ教えてください。丸谷さん??

 ちなみに、この本を読むと、漱石さんが日本の古典にも大きく影響されていたことも伝わってきます。というか、丸谷さんがそういう視点で見ているということですが。とにかく、文学に関しては百科事典的で圧倒されます。と同時に、とても面白いです。(私が単に知らなさ過ぎるだけ!?)

2013年11月8日金曜日

『思考のレッスン』⑮



 レッスン6の続きです。

235 日本語の特性
 『文章読本』後も考え続けています。
  一つは、なぜ日本語では長い文章が書けないかという問題。
     西洋の言葉では否定詞が文章の前の方に置かれるのにくらべて、日本語は否定詞が最後に来る。動詞が最後なので不安 → 長い文章はダメ。不安を募らせる。 接続詞(そして、しかし)でサインを出している。
237 それが日本文化の伝統にまでなっている。
    方向指示器の接続詞を何でもべたべたくっつけると、くだくだしいやな文章になってしまう。文章の名手になると、そこのところを実にさりげなく出して、しかし的確に方向を指示する文章を書くんです。  
238~240 <例文と解説> 谷崎潤一郎の『細雪』と『陰翳礼讃』の中から

     英語の関係代名詞、関係副詞といった関係詞をもたない点
241 その代わりに、関係詞節になってしまう。何がなんだか、わからない文章になる
241~3 <悪文の例文と解説>
   短い文章が基本で、たまに長い文章をアクセントとして入れ込んでいく。
   けれども、自分の都合だけで長くしてはいけない。読者のことを十分に考慮しながら書くべきです。なぜなら、文章とは筆者と読者との関係において成立するものであって、その関係が成り立たなければ文章は実は存在しないのと同じなんですから。

   ③ 文末の問題 ~ 単調になる
244 丸谷さんは、変幻自在に多彩な文体をつくってらっしゃる
245 和田誠の『似顔絵物語』がお薦め

   ④ 敬語の問題
246 近代日本の口語文というものは、小説家が小説を書くためにつくった文体です。そのせいで、敬語というものを捨ててしまった。これは西洋の19世紀小説の影響なんですね。18世紀の西洋文学を学んでいたら、もう少し何とかなってたかもしれない。
  敬語使いすぎの典型は、戦前の新聞の皇室関係の記事。あんまり敬語が多すぎて、何がなんだか意味不明になるくらいだった。まあもともと内容が貧弱なんだから、あれでよかったんだけどね。 ← その習慣が、いまも延々と続いている?!

247 政治家と官僚の言語的責任は大きい。
   日本語は、大和ことばと漢語と混ぜこぜで使うことによって成立している言葉です。
248 それを意識しないから、たとえば哲学者の文章とか官僚の文章は、漢語だらけになってしまう。
249 漢語と大和ことばを上手に混ぜて文章をつくる。片仮名ことばはできるだけ控える。そうすると文章が落ちつくんですね。
    文章というのは、われわれの文化の表現でもあるんですね。文章は文化の表現であり、文化は文章によって育てられる。そういう可逆的な関係を、もっと意識する必要があります。

2013年11月5日火曜日

『思考のレッスン』⑭


レッスン6: 書き方のコツ

 いよいよ最後のレッスンです。

226 人はものを考えるとき、意識的にせよ無意識的にせよ、必ず文章の形で考えます。つまり、思考というものは、かなりの程度、文章の形で規定される。だからこそ、ものを考えるときに、文章が非常に重要な問題なってくるんですね。
 口語文は、まだ100年経ったかどうか。私たちは、まだ文章として十分な能力をつけてない文体で、ものを考えることを強制されていると言ってもいい。
227 文章力がないと、考え方も精密さを欠くようになります。大ざっぱになったり、センチメンタルになったり、論理が乱暴になったり、文章力と思考力とはペアになるわけですね。

  以下は、『文章読本』に書かなかったこと
① 頭の中でワン・センテンスを完成させた上で、文字にせよ
       行き詰ったときはどうするか? お茶を飲むとか、散歩に出るとか、いろんな手がありますね。一番手っ取り早いのは、書いたところを読み返す
231 いままで書いてきたエネルギーをもういっぺん吸収し、それを受け継ぐようにして先へ進む。あるいはいままでのところでよくないところを反省して、そこを書き直したり、先で補ったりする。つまり自分の書いた文章を読み直すことは、一種の批評であって、その自己批評によってもう一人の自分との対話をする。そうやって書き続けていくことが大切なんですね。
       前後の論理的なつながり、論理的必然性に注意する
ただここで大事なのは、論理といっても、バカ正直、几帳面、しかつめらしい、堅苦しい、くそ真面目なものでは、困るんです。書くものの種類にもよりますが、論理的必然といっても、遊び心を忘れてはならない。そういう意味で、歌仙というのがとてもよいお手本でしょう。
234 将棋も。最初から駒の運びを覚えていられる。 → 羽生喜治『捨てる力』

2013年11月3日日曜日

『思考のレッスン』⑬



 レッスン5の続きです。

219 アイロニーの受け取り方は、西洋と日本ではちょっと違うけれども、大事なのは、そこにはあるポエトリー ~ 詩とユーモアがごちゃごちゃになったようなある感覚、おもしろさ、それがアナロジーには必ず付きまとうということなんですね。
  この詩情、詩的感覚が、ものを考えるときに大切だと僕は思う。えてして人は、「思考」というと、なんだかぎくしゃくして、堅苦しくて、大真面目で、窮屈なものだと思いがちです。論理学の教科書なんかを連想したりしてね。しかし、詩と論理とは不思議な形で一致する。というよりも、詩と論理が互いに排斥しあうものだというのは昔気質な思い込みで、新しい詩学では論理を尊ぶ。
  人間がものを考えるときには、詩が付きまとう。ユーモア、アイロニー、軽み、あるいはさらに極端に言えば、滑稽感さえ付きまとう。そういう風情を見落としてしまったとき、人間の考え方は堅苦しく重苦しくなって、運動神経の楽しさを失い、ぎごちなくなるんですね。
  つまり遊び心がなくちゃいけない。でも、これは当たり前ですよね。人間にとっての最高の遊びは、ものを考えることなんですから。

220 立てた仮説がもっと大きい枠組みの中で大丈夫かどうかを確かめることも大切です。細部も大事だけれど、大局観も大事なのね。
222 バロックは、歪んだ真珠。球形になれずに歪んだ、という意味。
    歌舞伎は動詞で「かぶく」の連用形による名詞形。この「かぶく」は傾く、常軌を逸する、人目に立つ異様ななりをする。どちらも生命力の過剰ですね。

  バロック演劇が、イエズス会演劇を通して、歌舞伎とつながっている、という仮説
223 歌舞伎をわりによく見るようになったころから、この演劇形式はどこからきたのか、不思議だなあと気にしていたもの。昭和41年ごろから。30何年前。
あれはつまり、日本とは何かという謎の一つのあらわれでしたね。そして、日本とは何かという謎は、結局のところ、自分とは何かという謎につながるんですよ。 ← 司馬さんも

 レッスン5は、ここまでです。 次回からは、最後のレッスン6です。

2013年11月1日金曜日

『思考のレッスン』⑫



 レッスン5の続きです。

208 とにかく最初に仮説を立てるという冒険をしなければ、事柄は進まない。直感と想像力を使って仮説を立てること、これはたいへん大事なことです。
  同時に、仮説を立てるにあたっては、大胆であること。びくびく、おどおどしていてはダメです。同じ仮説なら、みんながアッと驚くようなものを立てたほうがいい。
← これでは、学校にも、世間にも受け入れられないでしょう。物書きにしか。しかし、ものは書かれて、読まれても、世の中は変わらない。それとも、ジワッと変わるかな? でもやっぱり、丸谷さんや、井上ひさしさんや、鶴見俊輔さんの努力もむなしくいっこうに変わらない? どちらかといえば、悪い方に変わっている!!
210 おもしろいことに、うまい仮説を立てることができれば、その傍証、補強材料は不思議なくらい次々と現れてくるんですね。 ある事実を間接的に証明する証拠
211 ダメな仮説はやっぱりダメですが、いいときには、どんどんそれを応援する説が出てくる。だから、仮説は立てなきゃ損なんです。

212 良い仮説を立てるコツは、まず、多様なものの中に、ある共通する型を発見する能力、それが仮説を立てるコツだと言っておきたい。
  さまざまな外見をしているものの中に共通する点を見抜く、外見に惑わされずに、これは同類なんだなということを発見する、そういう力を持っているとうまくいくようですね。
211~5 具体例
215 このように多様なものを要約、概括して、そこから一つの型をとりだす。それがものを考えるときに非常に大事なことだと思うんです。
  その際、もう一つ大切なことがあります。型を発見したら、その型に対して名前をつける。

216 同種のものが別の概観で存在することを発見する、同類を見つけて同類項に入れる。これは他の言い方で言えば、「見立て」ですね。この「見立て」は、もともと日本文化にとって非常に大事なものでした。われわれの文化は、日本のものを中国のものに見立てることによって始まっている。
217 つまり見立てることによって想像力が動いたのであって、「見立て」は日本人のものの考え方にとって非常に大きな方法だった。その方法をわれわれが学ばない手はないでしょう。
  『忠臣蔵とは何か』は、その産物
218 せっかく考えたのに、どうして書かなかったんですか?
  本というのは考えたこと全部を書くものじゃないでしょう。氷山の一角だけ見せておいたんです。小説だって同じですよ。
  「見立て」は一種のアナロジーです。
  風流、滑稽、パロディ、批評だったりする。
  アイロニーでも。 アイロニーは、アナロジーの傷口からしたたる血潮である。