(全ての人物の名前は仮名です。障害特性や学習場面等にも、ある程度のフィクションが入っています)
作家の時間を通じて成長した夏彦くんと同級生たち
卒業式が無事に終わりました。卒業生の夏彦くんが学んだ特別支援学級の黒板に、43センチに切ったリボンをさも意味ありげに貼り付けておきました。夏彦くんの最後の身体測定の身長から、1年生の4月に計測した身長を引き算した長さです。それを自分のおでこに貼り付けて下級生とふざけて遊ぶお兄さんは、卒業式でも普段通りに笑って教室の扉から旅立っていきました。卒業式が終わり夏彦くんがいない教室は、残った後輩が何事もなかったように朝の会を送っています。夏彦くんの机には、彼の幾つもの忘れ物が彼の代わりに座っています。
前回、作家の時間の閉じ方で紹介した夏彦くんに贈る言葉は、卒業式を迎える教室の掲示物として、素晴らしいものになりました。一人ひとりの言葉と写真は、夏彦くんの目に映る学校の風景を想像したものになりました。特別支援学級の子どもたちは他者視点が苦手ですが、彼らなりに十分に活用して作られているように思います。ちょっとズレた感じもまた、彼らの持ち味が生かされた作品になりました。普段、自己表現の場として作家の時間を大切にしてきましたが、明確な相手のいる作家の時間もまた、子どもたちの個性が光る素敵な時間になりました。
https://wwletter.blogspot.com/2025/03/blog-post.html
夏彦くん自身は、豊かな書き手として成長し、卒業していきました。夏彦くんは、「名探偵シリーズ」のようなタッチの推理小説が好きで、ミルキー杉山のような登場人物が出てきて、謎を解決する物語を自分でもよく書いていました。また、自動車が好きで、好きな車種などを紹介する作品も書きました。後輩やその保護者からファンレターをもらったり、学校司書の先生から褒めてもらったりして喜び、自分の可能性を探究してきました。作家の時間は、確実に彼を成長させてきました。読み書きを教える一教師として、本当に嬉しいことです。
作家の時間を通じて、子どもを見る
さて、今回は、作家の時間で大切になる「子どもを見る」という視点について書こうと思います。私はこのテーマが好きです。作家の時間を続けている理由は、まさに「子どもをもっと知ることができるから」という点に尽きると思います。
作家の時間と箱庭療法
私は学生時代に箱庭について学んだことがありました。箱庭とは、砂の入った箱に人形や動植物、建物などを自由に配置して、無意識の表現を通じて自己理解を深めたり、心理的な安定を図ったりする、心理療法の一つです。子どもたちは楽しそうに気持ち良い砂の感触を味わったり、好きなように人形や家具を並べて、子どもたちなりの物語を作り始めたりします。やっぱり、なかなか作り出せない子がいたり、ずっと砂の感触を味わうだけの活動になったりする子もいて、ただ、それを別に否定するわけでもなく、カウンセラー(私のゼミの先生)は一緒に同じようなことをしたり、言語化したりしていたことを思い出します。
私は作家の時間に箱庭療法と似た感覚を覚えます。
多くの子どもたちは、お話作りやお絵描きが大好きです。原稿用紙や自由帳、今はタブレットかもしれませんが、そこに人形や建物を配置していくかのように、思いつくままに物語を紡ぎ出していきます。中には、箱庭の砂の感触を楽しむ行動と同じように、鉛筆が白紙に美しく線を描く感触を体で味わう子もいます。書いては消して、書いては消してを繰り返す子や、まったく書かずに何かを考えて時間を過ごす子もいます。それでも、何かを作り出そうと悩んだり困ったりします。そうやって、自分と向き合おうとがんばります。
箱庭と原稿用紙の違いはいろいろあるでしょうが、言葉を基本にして表現することや、箱庭よりも微調整や修正に手間がかかることが挙げられます。今はタブレットを使って作家の時間を行うことも多いでしょう。言葉の補助的な機能として絵や写真を活用しやすくなり、また、修正校正もしやすくなりました。より、箱庭の特徴に近い状況になっていると思います。(触感などの感覚を充足させることができるという点では、タブレットの作家の時間は劣っていると思います。大きな紙に自由に線を引いていく感覚はかけがえのない体験です)
箱庭は支援者との信頼関係の上で成り立つものです。安心で安全な場であることを証明する存在が支援者であり、作った子どもの自己理解や気づきを、子どもに合うように言語化してあげたり、子ども自身が言語化できるように促したりする役割を果たします。
同じように、作家の時間における先生の役割も、その役割を多分に担っていることだと思います。いきいきと表現する子どもたちだけでなく、悩みながら表現する子や表現しようとして消してしまう子でも、先生はしっかり見てあげたい。自分らしく完成できた子どもには、あなたの表現に心が動いたことを伝え、感謝し、一緒に祝えるような、そんな温かい関わりができたらと思います。また、いろいろな困難にぶつかってしまった子どもにも、次の表現活動のステップになるような励ましや、考え続けていた姿勢自体を認められたらと思います。
たしかに、文章が誰かに伝わるように、目的や様式を理解し、きちんと書ける技術を指導することはもちろん大切です。国語という教科の上で実践している以上、適切に表現し正確に理解することは欠かせないことです。ですから、作家の時間を行う私を含めた全ての先生は、国語という教科への理解を深めていかなければなりません。
しかし、技術の指導と同時に、子どもの表現を通じて子どもを認めるという視点を忘れてはいけません。かつての時代の先生が、それでも十分子どもとの関係作りができたのは、子どもたちの生活の中での他者との関係作りが多様で、先生以外の大人や社会との関係が十分に存在したからだと思います。家族や画面越しの他者との関係作りに終始してしまっている現代では、先生はもしかしたら唯一の社会との窓口となっている可能性があります。ともすれば、家族との愛着形成でさえ未熟な子どもも多くいるでしょうから、先生と子どもの関係作りはとても難しい時代になっているように思います。
自分を見られたくない子ども
一方で実際に小学校高学年にもなると、「自分を見られたくない子ども」が確実に存在することも事実です。おそらくそれは、昔からそうでした。けれど、それがより早い時期に、顕著になっているように思います。もちろん、私自身もどうしたらよいか悩みながら、そのような子どもにも自己表現できる機会を作り続けていくようにしています。
以前、ブログに書いた篤くんは、その一人だと思います。
https://wwletter.blogspot.com/2024/03/blog-post_22.html
手先が不器用で鉛筆やタブレットを操作するのもどうしても乱雑になってしまいます。そのような理由から、創作すること自体は大好きなのですが、自分の不器用さを隠すようにしてわざと乱雑に書いたり、文章をぐちゃぐちゃにしました。それを誰かに伝わるように整った文章にしてあげようとすると、とても嫌がりました。
一時期、先生に見られることを非常に嫌がり、書くことをやめてしまったことがありました。振り返ると、確実に私の関わり方の悪いところが出てしまったように思います。彼が表現したいことと、私が表現させたいことの溝が気になり、それを埋めようとして、強引な働きかけになってしまったことが原因だったように思います。「どうせおれは書けない。書きたいものがない」と繰り返しました。
特別支援学級は特別ではありません。本来どの子も特別であり、一般学級の子どもも自分の特別さを隠すようにして学習することができ、ことなきを得ています。そうすることができない子どもたちが、もしも不適応をおこしたとすれば、もしかしたら一つの手段として特別支援学級で学ぶようになることもあります。一般学級であっても、篤くんのような子どもはどこにでも存在し、できるだけ見られないように息を潜めているか、または、注目を浴びるような行動を意図的に取ろうとしてしまうことでしょう。
「自分を見られたくない子ども」の不安な気持ち
子どもたちは、小学校高学年よりも前にたくさんの大人に認められ励まされ、そして叱られて、有能感や劣等感と出会います。エリクソンのライフサイクル論にもある通り、昔からそうだったように思います。しかし、他者や世間に適合した体験ばかりが、成功体験であることを学びとって育っている子どもが多くなっているように思います。保護者の思い、先生の意図、友達の雰囲気に自分を適応できたことが、子どもたちにとっての成功体験で、逆に自分勝手に行った活動や冒険(探索活動)、遊びの経験は少なく、基本的自尊感情や探究的な意欲が減退しています。いや、非常に格差が開いているという表現の方が適切かもしれません。
「見られても大丈夫な子ども」と「見られるのがダメな子ども」の二極化は開く一方です。見られても大丈夫な子どもは、これまで認められてきた体験のおかげで、誰しもが自然に持っている「見られることへの不安」をコントロールすることができます。「見られるのがダメな子ども」は高学年になって、不安をコントロールすることができず、自己表現しないという選択になりがちです。他者の価値観に適合させることに失敗してきた経験などから、不安感情をコントロールする力が未発達なままになっているのかもしれません。人に見られることを避けるようにマスクやフードをしたり、逆に自分も他者を見ないようにスマホに集中したり、「自分を見られたくない子ども」は困難さに直面しています。
作家の時間は、「見られたくない子ども」が自分を見せるチャンスをつくる
でも、私は「自分を見られたくない子ども」が不安をコントロールする力を成長させるチャンスはまだまだ学校の中に作れるように思います。作家の時間は、「見られたくない子ども」が出せたほんの少しの自分を、先生が認めてあげられるチャンスです。教科書や学校の狙いが強すぎる学習になると、それは他者の価値観に適合した自分になってしまいます。それができなくて失敗経験を積んだ子どもなのですから、同じことの繰り返しになってしまうでしょう。
そうではなく、作家の時間の作品作りのように、自分の窓をわずかではあるけれど一生懸命開けるきっかけを、学習の中で作りたい。もしかしたらそれは本当の自分が無意識にさまざまに防衛を働かせて変化した姿かもしれません。もしそうであったとしても、子ども自身の表現として自分を見せられたことを、先生は認めて(ときとして遠くから見つめて)、感謝して、一緒に祝うことが、「見られたくない子ども」が自分を見られる不安と向き合い、それと上手に付き合えるきっかけになるかもしれません。
作家の時間には、子どもたちの多様性を内包する仕組みが備わっています。自分だけでなく、クラスの友達が自分の個性を活かした表現を行うことができるので、自分の表現が他の友達の表現と逸脱して不安になってしまう経験は少なくてすみます。他の友達がその子らしい表現をしていることも、自己表現を促すきっかけになることでしょう。
また、作家の時間に、表現しない自由を認めることは、そういった意味でも大切なことであるように思います。「見られたくない子ども」が強制的に何もかも見せなければならないのなら、それはハラスメントに近い行為のように思います。もちろん、それが教師という仕事が行う指導と紙一重であることは重々承知しています。私たちの仕事は、平均台の上をゆらゆら歩くような非常に難しい仕事なのだと思います。
篤くんの自己表現
篤くんは作家の時間を続けています、今でもわざと意味不明な文字列を書いたりして私は「それは出版できません!」と押し返すのですが、それでも自分の作品を出版したいという気持ちは復活して、テレビ画面に自分の書いたイラスト(かなり個性的)を映して、口頭で伝えています。「モンスターハンター」というゲームの敵キャラについてやりとりしたことをきっかけに、それを説明するような作品を作りました。(彼が口頭で話したことを私が代わりにタイプしてあげる方法で作りました)
篤くんが「見られたくない」理由は、他の人と同じように綺麗に書けないし、それをやろうとすると自分の自分のできなさが形になって現れてしまい、自分の気持ちがそれに耐えられないからです。だから、故意に意味不明な文字列にしたり、過剰にぐちゃぐちゃなイラストを描いたりします。篤くんが変わっていくためには、まず最初にその表現方法を認めていくことだと思います。
篤くんがそれでも自己表現を続けていることを、私たちは大切にしていこうと思っています。篤くんを社会が求める言葉が使えるように正そうと指導することは簡単ですが、それは今の彼にとっては残酷なことであり、篤くんの自分を表現する機会を実質的に奪うことなります。篤くんが自立的な学び手として豊かに生きるためには、自分を表現することが楽しい、他者と共有して嬉しいという感情を、大切に大切に育てていくことが必要となります。彼がいくら他者との関係を作ることが苦手だとしても、社会的な様式を習得させるという押し付けの善意で、自己表現を通じて相手と繋がる喜びを奪ってはいけません。学校という場であれば彼を社会の圧力から守ることもできます。私たちは、篤くんが一生懸命書いた作品を通じて彼を理解し、どんな作品でも認め(そして部分的には押し返し)感謝し、一緒に祝っていくことでしょう。篤くんの学ぼうとする気持ちを育んでいこうと思います。